新選組犯行説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 05:05 UTC 版)
襲撃を受けた中岡自身、「之はとうしても人を散々斬つて居る新選組の者だろう」と推測している。土佐藩重役寺村左膳も当日の日記に「多分、新撰組等の業なるべしとの報知也」と記している。 土佐藩の谷干城と毛利恭助は薩摩藩の中村半次郎の案内で、現場に残されていた鞘を薩摩藩邸に持参している。これを見た御陵衛士の篠原泰之進、内海次郎らが原田左之助のものであると証言した。一方で田中光顕は鞘については、殺害の報を聞いて現場にやってきた伊東甲子太郎が鑑定し、新選組のものとわかったが、誰であったかは判然としないと回想している。また谷は中岡の証言にある「声音」から、犯人は「中国から四国にかけてのものであろう」と判定した。御陵衛士の阿部十郎は、「そうであるならば伊予の松山藩でありましょう」と答え、「声が似ている」ものとして伊予出身の新選組隊士原田左之助の名を挙げた。ただしこれらの証言は明治中期以降に出てきたものである。 これにより土佐藩中枢部は犯行は新選組によるものだと判定し、幕府に対して告発を行っている。これを受けて11月26日に幕府から取調べを受けた新選組局長近藤勇は関与を否定している。世情では新選組が犯人であるという風評が強まり、当時はこれが有力な説と見られた。大久保利通も11月19日付けの岩倉具視宛書状で「第一、近藤勇が所為と察せられ申し候」と述べている。また龍馬の義弟にあたる菅野覚兵衛も中岡の父に対しての書状で「敵は当時会津に属する新選組の者に極り候」と述べている。 箱館戦争の後、降伏人となった旧新選組隊士に対しても坂本暗殺の尋問が行われているが、横倉甚五郎は全く知らないと答え、相馬肇は隊中において廻状が出され、暗殺を行ったのは見廻組だと書かれてあったと証言している。また大石鍬次郎は、元御陵衛士の加納鷲雄に捕えられた際に、新選組の犯行だと証言したが、後にそれは拷問から逃れるために偽証したことで、見廻組の4人が実行したことは近藤も知っていたと述べている。しかし今井の口上書が公表されるまでは、新選組犯行説が広く信じられていた。 また近江屋新助は、現場に残された下駄に先斗町にある「瓢亭」の印が押されており、瓢亭の主人が「新選組に貸した」と言っていたと証言している。ただし、当時の取り調べでは現場に残されていた下駄は瓢亭のものではない。
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