暗殺とその犯人説とは? わかりやすく解説

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暗殺とその犯人説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:22 UTC 版)

内山彦次郎」の記事における「暗殺とその犯人説」の解説

元治元年5月20日1864年6月23日)、内山彦次郎何者かによって暗殺された。幕末から明治にかけての両替商平野屋難波)武兵衛同年日記、『諸事向日加栄』の5月21日記録に「昨夜初夜まへ比の事にて、天神橋南詰にて~(略)、浪士七八人打寄ころし候よし」とあり、同斬奸状生前罪状=殺す理由記した文書)の写しには「昨夜戌ノ刻、於天神橋誅戮梟首處、折節市中町廻り罷越、無拠乍残念其侭打捨置候事有~」ともあって、場所は天神橋で、梟首されず遺体の上斬奸状置かれただけ、とわかる。さらに、同書5月24日記事によれば京都四条でも23日斬奸状にあたる、内山天誅張り紙がなされその写しに「於天神橋上加天誅」とあるので、殺害場所は大坂市中天神橋である。 一般に犯人新選組沖田総司永倉新八原田左之助井上源三郎の4人とも、これに近藤勇土方歳三加わっていたともされる新選組内山暗殺した動機は、前年新選組大坂出張をした際に小野川部屋力士らと乱闘騒ぎ起こした大阪角力事件」で、内山小野川部屋協力した疑いがあったことや、その吟味高圧的近藤との間に確執起きたための遺恨である、あるいは内山倒幕派志士結託して米価や油の値を吊り上げていると疑った上で天誅であると言われている。根拠としては、大坂京都斬奸状から在京者の仕業推測され永倉晩年口述した新選組顛末記』や、新選組屯所として利用した京都西本願寺寺侍西村兼文残した新撰組始末記』などが挙げられる。 しかし今日新選組犯行説には異論を唱える向きも多い。根拠とされる書物も、後に発見され永倉の『浪士文久報国記事』(『顛末記』以前書かれ日記)では内山暗殺事件について触れておらず、また『顛末記』には永倉自身ないしはそれが連載されていた『小樽新聞編集者によると見られる脚色のあとがあり、一方始末記』の西村新選組悪意持っていたため、共に信憑性を欠くというわけである。 事実当時京都・大坂ではいわゆる尊王攘夷倒幕」の嵐が吹き荒れており、倒幕派志士による奉行所役人など幕吏暗殺事件多発していたことから、そうした志士による犯行説捨て切れない当時風説集には、内山暗殺ネタにした小話多数収録されている。

※この「暗殺とその犯人説」の解説は、「内山彦次郎」の解説の一部です。
「暗殺とその犯人説」を含む「内山彦次郎」の記事については、「内山彦次郎」の概要を参照ください。

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