暗殺とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 06:44 UTC 版)
リヴォニア騎士団は、ジェマイティア全土を支配下におくためにミンダウガスとの同盟を利用した。ミンダウガスは、1252年の騎士団のクライペドス城築城を承認している。 しかしながら、両者の統治は、圧政のように捉えられた。現地の商人は、リヴォニア騎士団の仲介を介してのみ取引を行うことが出来た。相続法は変更され、結婚相手や居住地は制限された。幾つかの戦闘が立て続けに起きた。リヴォニア騎士団は1259年のスクドの戦いで、1260年のドゥルベスの戦いでそれぞれ敗北した。前者の敗北はジェマイティア人による反乱を奮い立たせ、後者の敗北はプロイセン人による、14年も続くことになる大反乱に拍車をかけることになった。これらの展開や、甥のトレニオタに助長された形で、ミンダウガスはリヴォニア騎士団との和平を破棄した。ミンダウガスがキリスト教改宗によって期待した物は、ほんの僅かであったことが判明した。 ミンダウガスは後に異教信仰に戻ったと思われる。そのキリスト教改宗の動機は、現代の歴史家によって単に戦略的なものであったと評されている。ミンダウガスの背教の真相に関しては、ほぼ同時代の資料が2つ残っている。一つは、ミンダウガスは間違った信仰に戻ったという教皇ヨハネス22世の断言であり、もう一つは『ハールィチ=ヴォルィーニ年代記』である。後者は、ミンダウガスは異教の神々に生贄を捧げ、遺体を焼き、公の場で異教の儀式を行うことで異教信仰を保持し続けたと述べている。歴史家は、ミンダウガスは、ハールィチ=ヴォルィーニ大公国と争っていたから、年代記の記述には偏見が含まれると指摘する。他方、教皇クレメンス4世は1268年にミンダウガス殺害に哀悼を示す形で "ミンダウガスの幸福な思いで" (clare memorie Mindota)を書いている。 いかなることが起きても、リトアニア全土のキリスト教化の覚悟は示されず、さらなるキリスト教の進展には、ミンダウガスの改宗は僅かな影響しか与えなかった。住民や貴族の大部分は異教信仰に留まり続けており、ミンダウガスの臣民はキリスト教への改宗を必要としなかった。ミンダウガスがヴィリニュスに建てたカトリックの大聖堂は異教の神殿に取って代わられ、その戴冠後の外交上の成果の全てが失われたが、キリスト教の慣習と通婚は大目に見られた。 リヴォニア騎士団との地域間の紛争はエスカレートしていった。ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキー、タウトヴィラスとその息子コンスタンティナスは反ミンダウガス同盟に同意したが、その計画は成功しなかった 。ジェマイティアにおける抵抗の指導者として、トレニオタが台頭してきた。トレニオタは抵抗軍を率いてツェーシス (現在のラトビア)に赴き、エストニア沿岸部で、マゾフシェ (現在のポーランド)と戦った。その目標は、支配下におかれている全バルト諸族を、キリスト教騎士団に対する抵抗へと奮い立たせ、リトアニアの指導のもとで統一することであった。トレニオタの影響力は増していったが、他方、ミンダウガスはルーシの地の征服に専念し、その主力軍をブリャンスクに派遣していた。トレニオタとミンダウガス、それぞれが追い求める優先事項は異なっていた。 『リヴォニア押韻年代記』は、トレニオタが、ラトビアまたはエストニアとの同盟を構築しない事実に、不快感を示している。ミンダウガスは外交を優先するようになったのだろうと述べている。これらの出来事の最中に妻であるモルタが死去し、ミンダウガスはその姉妹でダウマンタスの妻であった女性を奪い取った。これへの報復として、ダウマンタスとトレニオタは、ミンダウガスをその2人の息子と共に1263年に殺害した。後の伝説では、暗殺はアグロナで行われた。ミンダウガスの遺体は古くからの慣習に従って馬と共に埋葬された。ミンダウガス没後のリトアニアは混乱状態に陥った。 3人の後継者、即ち、トレニオタ、義理の息子シヴァン、実の息子ヴァイシュヴィルガスは次の7年間の間に殺された。1270年にトライデニスが大公位につくまで混乱は収まらなかった。
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