暗殺にまつわる謎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 05:13 UTC 版)
暗殺の実行犯が確定されたのは、昭和47年(1972年)に中村半次郎(桐野利秋)の『京在日記』の散逸部分が発見され、中村本人が小三郎暗殺を日記に克明に綴っていたことが判明したためである。しかし、中村に指令した黒幕がいたのかいないのか、いたとすれば誰なのかに関しては未解明のままである。 大正8年(1919年)には旧薩摩藩士の有馬藤太が、中村半次郎が赤松を斬ったと口述し、その段階で実行犯はほぼ明らかになった。有馬は、この事件は有馬と実行犯の中村・田代及び当日中村の跡をつけていた小野強右衛門の4人しか知るものはなかったと述べている。しかし有馬は赤松暗殺事件の際にはまだ鹿児島にいて現場にはおらず、「4人しか知るものはなかった」という彼の発言の信ぴょう性は薄い。 薩摩藩主の島津茂久の記録である『忠義公史料』には「赤松何某トテ、本信州浪人ニテ、砲術ニ達セシモノニ、此方ヨリ段々門人モ多ク、有名ノモノニ候処、是ハ幕府ヨリ間者之聞ヘ有之、中将公御出立前夜打果候ヨシ」という記事が記載されている。藩主の茂久にこのような報告がなされていることからも、中村ら4人しか知らないということはあり得ず、薩摩藩の武力討幕派による組織的な犯行である可能性が高い。
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