暗殺とボゴタ暴動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 19:55 UTC 版)
「ホルヘ・エリエセル・ガイタン」の記事における「暗殺とボゴタ暴動」の解説
1948年4月、ボゴタで第9回米州会議が開催される。トルーマン・ドクトリンに基づくボゴタ憲章が採択される。米州連合に代わる常設機構として米州機構(OAS)が設立され、アメリカを盟主とする反共軍事同盟が結ばれたのだった。4月7日、米州会議に対抗する形でラテンアメリカ学生会議総会がボゴタで開催されることが決まる。ボゴタに到着したフィデル・カストロはガイタンと会見、学生会議での記念演説の了解を得る。4月9日午後1時5分頃、ガイタンはエル・ティエンポ新聞社でのキューバ学生団との対談のために徒歩で向かう途中、ボゴタのヒメネス・デ・ケサーダ通りと7番通り(Carrera Septima)の交差点で4発の銃弾を受け射殺された。犯人のフアン・ロア・シエラは27歳の貧しい青年で、犯行直後に激昂した群衆により隠れていた薬局から引き出されて殴り殺され、群衆は遺体を街頭に吊るした。ガイタンの死が全国に伝わるとボゴタでは大暴動が発生、さらにオンダ、カルタゴ、バランカベルメハ、トゥルボでも暴動が起こり、バランキージャでは知事庁舎が暴徒に占拠された。カストロは警察署襲撃に参加するが失敗、アルゼンチン外交官の手引きにより命からがらボゴタを脱出した。暴動は2日後の11日に保守党政権の徹底的な弾圧により鎮圧され、ボゴタでは136軒の建物が全焼し、市民ら約2000人が死亡した。その後の弾圧では1週間に5000人が虐殺された。オスピナ政権は急速に右傾化し、自由党左派や共産党は地方でゲリラ戦を展開。1949年11月の総選挙では保守党超強硬派のラウレアーノ・ゴメス(英語版)が当選し、ゴメス政権は独裁化し人民弾圧を続け、コロンビアは1950年代後半まで続くラ・ビオレンシア(暴力の時代)に突入するのである。この政治的混乱と暴力の嵐は1953年6月のグスタボ・ロハス・ピニージャ(英語版)将軍による軍事クーデターによるゴメス追放、さらに1957年5月のロハス退陣と同年末の自由・保守両党による「サンカルロス協定」による政争の中止と両党による政権折半合意により終結するのを待たねばならなかった。およそ10年に及んだ動乱による犠牲者は10万人とも20万人とも言われ、コロンビアは現在まで続く暴力の伝統に苦しめられている。
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