マイナサラ暗殺とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/15 08:09 UTC 版)
「イブライム・バレ・マイナサラ」の記事における「マイナサラ暗殺とその後」の解説
強権的な政治手法で国政を運営してきたマイナサラだが、1999年2月の地方議会選挙で野党が勝利すると、この結果を不服として最高裁判所に選挙のやり直しを決定するよう申し立てた。既に民心がマイナサラ政権から離れていたことを示す結果だが、最高裁判所はこれを受け入れ、地方の多くの選挙区で選挙のやり直しを命じた。これに対し、同年4月8日、野党は大規模な反対運動を起こした。 同年4月9日、首都のニアメにあるディオリ・アマニ国際空港から、外遊へと出発しようとしていたマイナサラを、複数の兵士による銃弾が襲った。マイナサラは死亡し、大統領警護隊隊長のダオダ・マラム・ワンケがクーデターを宣言、軍事政権国家和解評議会を設立した。これにより、1996年から続いたマイナサラ政権は終焉を迎えた。 暗殺事件について、ニジェール政府の公式見解は不慮の事故の結果とされているが、クーデターによる暗殺であることは明白であった。マイナサラの支持基盤RDPは、国際社会に対し、マイナサラ暗殺の調査をその後数年にわたって呼びかけ続けた。 ワンケは1999年中に民政移管することを公約し、同年中にMNSDのタンジャ・ママドゥが大統領選で当選。12月22日をもって国家和解評議会は解散され、民政に移管した。この大統領選にはRDPからアルガビードが出馬したが、結果的に敗北を喫した。
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