箱館焼の経営と失敗
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箱館焼は、蝦夷地での初めての本格的な陶磁器生産であったため、岩次らが当初断ったように、赤字覚悟の事業であった。もちろん岩次は陶工であると同時に商人でもあったため、箱館焼のみでは経営が成り立たないのは承知の上で、赤字の穴埋めとしての方策は考えていた。その一つが、国元の美濃焼製品を箱館焼の名目で北国筋へ売りさばくことであった。実際、岩次の故郷である岩村藩荻之島(現在の瑞浪市釜戸)の古窯から「箱館」と銘打たれた陶器が発見されている。 1858年4月、足立岩次は沢尻辺(現在の函館市谷地頭)に陶器製造の諸施設を建築した。窯場の規模は11棟あり、新窯で試し焼きをしたところ、「見事なる品」が出来たので、2000両を手当金として拝借した。土石は箱館近在のものを使用し、主に川汲・尻岸内のものが使用された。いずれも窯場から30~40キロという距離があり、船便または馬により運ぶ必要があった。釉薬は国元のものを使用し、新潟経由で運ばせた。呉須も国元のものを使用した。 箱館焼の製品としては、急須・湯呑・碗・徳利・香炉・杯などが生産され、絵柄は一見して箱館特産とわかるように蝦夷地にちなんだものが要求された。具体的には、箱館八景・アイヌ・外国人などが描かれたものがある。これは、蝦夷地製品ということを前面に出して販路を求めようとしたためであった。このような地域の特徴を生かした製品づくりという考え方は、当時としては画期的なものであったように思われる。 陶磁器生産は、蝦夷地では冬の間寒さのため操業できなかったため、箱館奉行所のあっせんで笠松役所へ「美濃焼物太白無地物」の購入を願い出ている。これは、冬期の稼ぎとして無地の美濃焼に上絵付けをさせるためであった。これら箱館焼に携わった職人たちは約40名であり、国元美濃出身者以外にも尾張・阿波・丸亀・高遠・戸狩など多岐にわたっていた。 箱館焼は赤字覚悟の事業ではあったが、岩次が1859年6月に岩村藩に提出した「陶器焼立諸雑用差引大積帳」によれば、1860年の試算として、年間7窯を稼動させて266両余の純益を見込んでいる。この試算では寒さの厳しい冬期の創業は見込んでおらず、職人の人件費や土石等の運搬費、職人の旅費なども試算に含まれており、実現不可能な無理な試算というわけではなかった。とはいえ、この試算は年間7窯が順調に稼動することを前提とした試算であり、実際には岩次の目論見どおり順調にはいかなかった。 たとえば、年間7窯操業するには1窯あたり約34日と試算したが、実際には1窯操業するための日数がこれ以上かかってしまい、1859年には年間7窯の操業はできなかったのである。このため、運搬経費の節減目的で尻岸内の土のほかに、窯場からほど近い湯の川の土を混ぜて用いたが、試し焼も省略した結果、土質が悪く、また火力が強すぎるなどの初歩的なミスが重なって、陶器の焼成に失敗してしまった。 また、箱館焼自体の売れ行きも良くなかった。これは、釉薬や呉須など陶磁器生産に必要不可欠なものをすべて本州からの移入に頼らざるを得ず、また蝦夷地の特徴を前面に出した染付けを施したため、手間がかかることから、結果として箱館焼の製品の価格に反映されてしまったためである。 さらに岩次にとって不運は続いた。岩次が赤字の埋め合わせとして、国元で美濃焼を仕入れた上で、箱館焼の名目で北国筋において売りさばこうとしていたことはすでに触れたが、1859年には国元で仲買より購入した美濃焼を乗せた船が難破してしまったのである。また、当時は仲買からではなく窯元から直接美濃焼を買い取るには笠松役所が発行する仲買鑑札が必要であったが、新規の仲買鑑札は箱館奉行所の斡旋をもってしても容易ではなく、許可が出るまでに4年もかかったために、もはや時期を逸してしまったのであった。 こうした予想外の問題が相次いだ結果、箱館焼の経営状況は予想以上に悪化し、赤字の埋め合わせとして考えられた美濃製品の箱館焼名目での販売も仲買鑑札の発行が遅れたため予想通り進まず、借金は増大し、1860年代初頭には箱館焼の生産は終了してしまった。箱館焼の生産の終了がいつ頃なのかは必ずしも明らかではないが、現存する箱館焼でもっとも新しいものは文久2年の銘があることから、少なくとも1862年までは生産されていたようである。 岩次も、箱館焼の経営不振をただ手をこまねいて見ていたわけではない。1860年7月には経営不振で仕入金もなくなり、窯方施設・諸道具を差し上げることを条件に、箱館焼を産物会所の「御手窯」とするよう願い出ているが断られている。また、1861年には官金571両を拝借して茂辺地村にて煉瓦製造の新事業を開始している。これは当時箱館はすでに開港しており、箱館に居住する外国人のニーズに応えたものであった。この事業の進展については史料がなく詳細は不明ではあるが、煉瓦製造事業の開始にともない箱館焼製造の規模は縮小したものと思われる。1862年になり、美濃焼物取締人であった加藤円治は笠松役所に対し、ようやく仲買鑑札の発行を承諾する旨を伝えているが、それはあまりにも遅きに失した許可であった。 その後の岩次の足跡は詳しくはわかっていないが、故郷の美濃国荻之島に戻り、「荻之島焼」の製造に従事している。岩次本人は蝦夷地製の陶磁器販売の構想はこの後も持ち続けていたようで、荻之島でも「箱館」の銘のついた陶磁器を作成していたようである。明治維新後の1871年には為治と神奈川表異国交易の許可を得ている。また、1874年には荻之島で「電信用碍子」の製造をはじめるなど、岩次は進取の気性に富んだ企業家としての一面を見せている。1889年12月に岩次は72歳で死去したという。 これに対し、為治に関してはどのような人物であったのかを伝える資料はほとんど残されていない。箱館焼失敗後の足跡も不明であるが、1871年には岩次とともに神奈川表異国交易の許可を得たという。ところで、箱館焼とほぼ同時期に、石原寿三郎は常滑出身の本多桂次郎を招聘し、箱館近郊の茂辺地村にて開窯させている。こちらについては詳細は不明であるが、おそらく数年で廃窯となったものと思われる。しかし、本多はその後も蝦夷地に残り、蝦夷地での陶磁器生産に執念を燃やしている。明治維新後は小樽に移り、1872年に小樽焼を創始している。
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