箱館焼の経営と失敗とは? わかりやすく解説

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箱館焼の経営と失敗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 01:15 UTC 版)

箱館焼」の記事における「箱館焼の経営と失敗」の解説

箱館焼は、蝦夷地での初めての本格的な陶磁器生産であったため、岩次らが当初断ったように、赤字覚悟事業であった。もちろん岩次は陶工であると同時に商人でもあったため、箱館焼のみでは経営成り立たないのは承知の上で赤字穴埋めとしての方策考えていた。その一つが、国元美濃焼製品箱館焼名目北国筋へ売りさばくことであった実際、岩次の故郷である岩村藩之島(現在の瑞浪市釜戸)の古窯から「箱館」と銘打たれ陶器発見されている。 1858年4月足立岩次は沢尻辺(現在の函館市谷地頭)に陶器製造諸施設建築した窯場規模11棟あり、新窯で試し焼きをしたところ、「見事なる品」が出来たので、2000両を手当金として拝借した土石箱館近在のものを使用し、主に川汲・尻岸内のものが使用された。いずれも窯場から3040キロという距離があり、船便または馬により運ぶ必要があった。釉薬国元のものを使用し新潟経由で運ばせた。呉須国元のものを使用した箱館焼製品としては、急須湯呑・碗・徳利香炉・杯などが生産され絵柄一見して箱館特産とわかるように蝦夷地にちなんだものが要求された。具体的には、箱館八景アイヌ外国人などが描かれたものがある。これは、蝦夷地製品ということ前面出して販路求めようしたためであったこのような地域の特徴生かした製品づくりという考え方は、当時としては画期的なものであったように思われる陶磁器生産は、蝦夷地では冬の間寒さのため操業できなかったため、箱館奉行所のあっせん笠松役所へ「美濃焼太白無地物」の購入願い出ている。これは、冬期稼ぎとして無地美濃焼上絵付けをさせるためであった。これら箱館焼携わった職人たちは約40名であり、国元美濃出身者以外にも尾張阿波・丸亀・高遠戸狩など多岐にわたっていた。 箱館焼赤字覚悟事業ではあったが、岩次が1859年6月岩村藩提出した陶器焼立諸雑用差引大積帳」によれば1860年試算として、年間7窯を稼動させて266両余の純益見込んでいる。この試算では寒さ厳し冬期創業見込んでおらず、職人人件費土石等の運搬費職人旅費なども試算含まれており、実現不可能な理な試算というわけではなかった。とはいえ、この試算年間7窯が順調に稼動することを前提とした試算であり、実際には岩次の目論見どおり順調にはいかなかった。 たとえば、年間7窯操業するには1窯あたり約34日と試算したが、実際には1窯操業するための日数これ以上かかってしまい、1859年には年間7窯の操業はできなかったのであるこのため運搬経費節減目的で尻岸内の土のほかに、窯場からほど近い湯の川の土を混ぜて用いたが、試し焼も省略した結果土質悪く、また火力が強すぎるなどの初歩的なミス重なって陶器焼成失敗してしまった。 また、箱館焼自体売れ行き良くなかった。これは、釉薬呉須など陶磁器生産必要不可欠なものをすべて本州からの移入に頼らざるを得ず、また蝦夷地特徴前面出した染付け施したため、手間がかかることから、結果として箱館焼製品の価格反映されてしまったためである。 さらに岩次にとって不運続いた。岩次が赤字埋め合わせとして、国元美濃焼仕入れた上で箱館焼名目北国筋において売りさばこうとしていたことはすでに触れたが、1859年には国元仲買より購入した美濃焼乗せた船が難破してしまったのであるまた、当時仲買からではなく窯元から直接美濃焼買い取るには笠松役所発行する仲買鑑札が必要であったが、新規仲買鑑札箱館奉行所の斡旋をもってしても容易ではなく許可が出るまでに4年かかったために、もはや時期逸してしまったのであったこうした予想外問題相次いだ結果箱館焼経営状況予想以上に悪化し赤字埋め合わせとして考えられ美濃製品箱館焼名目での販売仲買鑑札発行遅れたため予想通り進まず借金増大し1860年代初頭には箱館焼生産終了してしまった。箱館焼生産終了いつ頃なのかは必ずしも明らかではないが、現存する箱館焼でもっとも新しいものは文久2年の銘があることから、少なくとも1862年まで生産されていたようである。 岩次も、箱館焼経営不振をただ手をこまねいて見ていたわけではない1860年7月には経営不振仕入金もなくなり、窯方施設諸道具差し上げることを条件に、箱館焼産物会所の「御手窯」とするよう願い出ているが断られている。また、1861年には官金571両を拝借して茂辺地村にて煉瓦製造新事業開始している。これは当時箱館はすでに開港しており、箱館居住する外国人ニーズ応えたものであった。この事業進展については史料がなく詳細不明ではあるが、煉瓦製造事業の開始にともない箱館焼製造規模縮小したものと思われる1862年になり、美濃焼取締であった加藤円治は笠松役所対し、ようやく仲買鑑札発行承諾する旨を伝えているが、それはあまりにも遅きに失した許可であったその後の岩次の足跡詳しくわかっていないが、故郷美濃国之島に戻り、「之島焼」の製造従事している。岩次本人蝦夷地製の陶磁器販売構想この後持ち続けていたようで、之島でも「箱館」の銘のついた陶磁器作成していたようである。明治維新後の1871年には為治と神奈川異国交易許可得ている。また、1874年には之島で「電信碍子」の製造をはじめるなど、岩次は進取の気性富んだ企業家としての一面見せている。1889年12月に岩次は72歳死去したという。 これに対し、為治に関してどのような人物であったのかを伝え資料はほとんど残されていない箱館焼失敗後の足跡不明であるが、1871年には岩次とともに神奈川異国交易許可得たという。ところで、箱館焼とほぼ同時期に石原寿三郎常滑出身本多次郎招聘し、箱館近郊茂辺地村にて開窯させている。こちらについては詳細不明であるが、おそらく数年で廃窯となったものと思われる。しかし、本多その後蝦夷地残り蝦夷地での陶磁器生産執念燃やしている。明治維新後は小樽移り1872年小樽焼を創始している。

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