箱館焼創始の背景とは? わかりやすく解説

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箱館焼創始の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 01:15 UTC 版)

箱館焼」の記事における「箱館焼創始の背景」の解説

美濃国岩村藩は、岐阜県東濃地方恵那郡土岐郡一帯支配していた小藩であった岩村城日本三大山城ともいわれ、美濃信濃要衝に当たることから戦国時代には織田信長武田信玄との対立最前線であった江戸時代に入ると、徳川家康譜代家臣である大給松平氏松平家乗岩村藩封じられている。大給松平氏は、家康5代前の松平家当主であった松平親忠次男松平乗元を祖としており、徳川宗家とは密接な関係にあったこのように徳川家譜代大名代々統治したのは、岩村という地がそれだけ重要視されていたことを示している。その後260年の間、岩村東濃地方政治・文化中心地として繁栄した。しかし、幕末期には他の諸藩同じく財政的に逼迫していた。このような状況の下で、岩村藩1857年箱館奉行所の依頼により、庄屋問屋つとめていた足立岩次とその配下の為治を蝦夷地派遣している。 箱館焼について、『北海道史』では、「陶工為治岩次の二人出願し…」というように、あくまで為治と岩次の個人的な出願として描かれており、また、結果的に箱館焼生産失敗してしまったことから、箱館焼に関する文献などでも二人個人的な事業あるかのようにされている場合がほとんどである。 問屋庄屋であった足立岩次が、蝦夷地に関する情報も非常に限られており、理解もまだ乏しかった幕末時期において、気象条件悪く失敗する危険性も高い蝦夷地での陶磁器生産を藩の援助に頼ることなし個人的な事業として成り立たせることが果たし可能だったかどうかについて、塚谷晃弘益井邦夫1976『北海道陶磁 箱館焼その周辺によれば当時岩村藩松平乗喬若くして亡くなったため、幼少世嗣松平乗命)が相続したが、このため大名義務である参勤交代ができず、その代わりとして蝦夷地開拓政策一環である窯業部門岩村藩引き受ける旨幕府願い出たためとしている。この真偽定かではないが、箱館奉行所が陶磁器生産岩村藩依頼し岩村藩が為治・岩次を推挙したことは確かである。そして、実際に箱館奉行所は石原寿三郎瀬戸常滑美濃方面派遣させている。また、岩村藩箱館焼製造開始後に、藩士三田官兵衛を見届役としてたびたび派遣していることからも、蝦夷地での陶磁器生産事業個人的なものではなく箱館奉行所の依頼を受け岩村藩深く関与した事業だった。 箱館奉行所の陶磁器生産依頼対し、為治・岩次は「新規築き候儀は、多分之損毛相立候儀ニ付、中々以て永続不行届候間、御請難き旨申上候」として断っている。しかし、結局は資金融資してもらう条件説得応じることとなった。そこで、1857年9月に岩次は早速箱館出発し箱館近辺陶土採取し国元持ち帰り試作品焼いたところ「至極宜敷品」が完成し評判上々であったので、蝦夷地での陶磁器生産見通し立ったことを確信した。こうして、翌1858年4月、岩次は45人の人夫引き連れて窯場普請とりかかった。こうして数百年ぶりの北海道窯業復活」の端緒開かれたであった

※この「箱館焼創始の背景」の解説は、「箱館焼」の解説の一部です。
「箱館焼創始の背景」を含む「箱館焼」の記事については、「箱館焼」の概要を参照ください。

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