箱館焼創始の背景
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美濃国岩村藩は、岐阜県東濃地方の恵那郡・土岐郡一帯を支配していた小藩であった。岩村城は日本三大山城ともいわれ、美濃と信濃の要衝に当たることから戦国時代には織田信長と武田信玄との対立の最前線であった。江戸時代に入ると、徳川家康譜代の家臣である大給松平氏の松平家乗が岩村藩に封じられている。大給松平氏は、家康の5代前の松平家当主であった松平親忠の次男松平乗元を祖としており、徳川宗家とは密接な関係にあった。このように徳川家譜代の大名が代々統治したのは、岩村という地がそれだけ重要視されていたことを示している。その後約260年の間、岩村は東濃地方の政治・文化の中心地として繁栄した。しかし、幕末期には他の諸藩と同じく財政的に逼迫していた。このような状況の下で、岩村藩は1857年、箱館奉行所の依頼により、庄屋問屋をつとめていた足立岩次とその配下の為治を蝦夷地に派遣している。 箱館焼について、『北海道史』では、「陶工為治岩次の二人出願し…」というように、あくまで為治と岩次の個人的な出願として描かれており、また、結果的には箱館焼の生産は失敗してしまったことから、箱館焼に関する文献などでも二人の個人的な事業であるかのようにされている場合がほとんどである。 問屋庄屋であった足立岩次が、蝦夷地に関する情報も非常に限られており、理解もまだ乏しかった幕末の時期において、気象条件も悪く失敗する危険性も高い蝦夷地での陶磁器生産を藩の援助に頼ることなしに個人的な事業として成り立たせることが果たして可能だったかどうかについて、塚谷晃弘・益井邦夫1976『北海道の陶磁 箱館焼とその周辺』によれば、当時の岩村藩主松平乗喬が若くして亡くなったため、幼少の世嗣(松平乗命)が相続したが、このため大名の義務である参勤交代ができず、その代わりとして蝦夷地開拓政策の一環である窯業部門を岩村藩が引き受ける旨幕府に願い出たためとしている。この真偽は定かではないが、箱館奉行所が陶磁器生産を岩村藩に依頼し、岩村藩が為治・岩次を推挙したことは確かである。そして、実際に箱館奉行所は石原寿三郎を瀬戸・常滑・美濃方面へ派遣させている。また、岩村藩は箱館焼の製造開始後に、藩士三田官兵衛を見届役としてたびたび派遣していることからも、蝦夷地での陶磁器生産事業が個人的なものではなく、箱館奉行所の依頼を受け岩村藩が深く関与した事業だった。 箱館奉行所の陶磁器生産の依頼に対し、為治・岩次は「新規窯築き候儀は、多分之損毛相立候儀ニ付、中々以て永続方不行届候間、御請仕難き旨申上候」として断っている。しかし、結局は資金を融資してもらう条件で説得に応じることとなった。そこで、1857年9月に岩次は早速箱館に出発し、箱館近辺で陶土を採取し、国元に持ち帰り試作品を焼いたところ「至極宜敷品」が完成し、評判も上々であったので、蝦夷地での陶磁器生産の見通しが立ったことを確信した。こうして、翌1858年4月、岩次は45人の人夫を引き連れて窯場の普請にとりかかった。こうして数百年ぶりの北海道窯業「復活」の端緒が開かれたのであった。
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