大給松平家
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大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)は、松平氏の庶流にあたる武家・華族だった家。松平親忠の次男乗元を祖とする十八松平の一つで、江戸時代には譜代大名4家が出、維新後には4家とも華族に列した(伯爵家1家、子爵家3家)。4家のうち2家は明治以降大給(おぎゅう)に改姓した[2]。
注釈
出典
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、百科事典マイペディア、旺文社日本史事典 三訂版、世界大百科事典 第2版『松平氏』 - コトバンク
- ^ a b c d 小田部雄次 2006, p. 330.
- ^ 村岡幹生「大給松平家先祖再考」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年) P120-121.
- ^ 村岡幹生「大給松平家先祖再考」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年) P129.
- ^ a b 新田完三 1984, p. 630.
- ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142632 新井『藩翰譜』巻一、発行者・吉川半七、国立国会図書館デシタルコレクション
- ^ 新田完三 1984, p. 632.
- ^ a b c d 新田完三 1984, p. 737.
- ^ a b c d 浅見雅男 1994, p. 24.
- ^ a b c d 小田部雄次 2006, p. 13-14.
- ^ a b c d 浅見雅男 1994, p. 151.
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 337.
- ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 247.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 195.
- ^ 新田完三 1984, p. 107.
- ^ a b 新田完三 1984, p. 109.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 403.
- ^ 新田完三 1984, p. 493.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 98.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 78.
- 1 大給松平家とは
- 2 大給松平家の概要
- 3 関連する寺社
大給(宗家)松平氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 20:14 UTC 版)
徳川氏譜代の大給松平氏の松平家乗が、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)1月に、上野那波藩から2万石で岩村へ入り初代藩主となった。慶長19年(1614年)2月に家乗は死去し、子の松平乗寿が藩主を継いだが、大坂の陣で戦功を挙げたことを賞され、寛永15年(1638年)4月25日に遠州浜松藩へ加増されて移封した。
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大給(分派)松平氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 20:14 UTC 版)
元禄15年(1702年)9月7日、信濃小諸藩より松平乗寿の孫・松平乗紀が'第8代藩主として2万石で入った。歴代藩主の多くが奏者番・寺社奉行など幕府の要職を歴任しているが、そのために第9代藩主・松平乗賢時代の享保20年(1735年)5月23日に1万石の加増を受けて3万石となったが、その内の5,276石が駿河国の15ケ村(現在の藤枝市、焼津市、島田市、静岡市の一部)で横内村に横内陣屋を設置し代官を派遣した。また岩村藩主が大坂城代に就任した期間は摂津国、和泉国、美作国で計1万石を給付された。 なお、大給松平家は学問を奨励し、松平乗紀は藩校・文武所(のちに知新館)を創設した。松平乗薀の3男・松平乗衡は大学頭である林信敬の養子となり、後に林氏を継いで林述斎(林衡)となる。 1858年、箱館奉行所の要請により足立岩次らを蝦夷地へ派遣。近代北海道初の陶磁器生産である箱館焼の生産を開始するが数年で失敗。
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大給(宗家)松平氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:37 UTC 版)
「大名墓地 (岐阜県恵那市)」の記事における「大給(宗家)松平氏」の解説
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)1月に、徳川氏譜代の大給松平氏の松平家乗が上野那波藩から岩村藩へ移封となり久翁山 龍厳寺を建てた。慶長19年(1614年)2月に家乗が死去したので龍厳寺の境内に大きな堂が立てられ位牌や仏像を安置していたが、子の松平乗寿が、寛永15年(1638年)4月25日に遠州浜松藩へ加増移封となったため龍厳寺は廃された。後に堂が朽ち果てたので、跡地に『松平前泉州家乗之墓』と刻んだ墓石が建てられた。その他、松平家乗の父である松平真乗の『梅香院殿清岸道翁大禅定門 慶長十五年』という供養塔、松平家乗の妻の『松樹院殿栄誉盛繁大信女 寛永九年』という供養塔がある。
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大給(分派)松平氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:37 UTC 版)
「大名墓地 (岐阜県恵那市)」の記事における「大給(分派)松平氏」の解説
丹羽氏が移封後の元禄15年(1702年)9月7日、信濃小諸藩より松平乗寿の孫・松平乗紀が岩村藩に2万石で入った。その際に丹羽氏の菩提寺の妙仙寺の建物を受け取り小諸城内にあった菩提寺の松石山 乗政寺を仏像や位牌と共に岩村へ移した。大給分派松平氏は藩主の墓を岩村には建てず、全て江戸上野の春性院に建てたが、松平乗薀の長男で松平乗国の『玄達院殿踏雲幻光大童子 明和九年』という供養塔、松平乗保の長男で松平乗友の『大成院仁雄智道大居士 享和元年』という供養塔がある。明治2年(1869年)、最後の藩主である松平乗命は版籍奉還により岩村藩知事に任じられたが、明治4年(1871年)の廃藩置県により、岩村藩は廃藩となったため、乗政寺も廃されて、寺宝など一切は、近くの晴雲山 隆祟院に移した。そのため大名墓地(乗政寺墓地)には乗政寺は存在していない。
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