松平近鎮
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松平 近鎮(まつだいら ちかやす、正保2年(1645年) - 正徳6年2月22日(1716年3月15日))は江戸時代前期から中期の旗本。大給松平家の分家・松平大学家の祖。初名は昭利。通称は傳二郎、左門、織部、大学。官位は従五位下、大学頭、主計頭[1]。府内藩主・松平忠昭の次男。母は酒井忠正の娘。妻は皆川秀隆の娘。子に近数、養子に近苗(松平近陳三男)、近敏(松平近任長男)がいる[1]。
明暦2年(1656年)8月5日、将軍徳川家綱に御目見し、万治元年(1658年)9月7日、中奥勤めとなる。寛文2年(1662年)2月15日より中奥番を務め、寛文6年(1666年)12月28日に従五位下大学頭に叙任される。延宝4年(1676年)3月27日、父・忠昭の所領から、豊後国大分郡の1000石と新墾の500石を分与される。天和2年(1682年)6月3日に小姓組番頭、天和3年(1683年)閏5月9日に大番頭となり、武蔵国埼玉郡で1000石を加えられ、所領が2500石となる。元禄3年(1690年)5月11日に職を辞して寄合に列し、元禄10年(1697年)6月10日より留守居を務める。正徳5年(1715年)5月27日に老齢のため職を辞し、翌正徳6年(1716年)2月22日に72歳で死去。法名は光圓。墓所は寛永寺の子院・津梁院[1]。
脚注
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