松平近説とは? わかりやすく解説

松平近説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/23 07:58 UTC 版)

 
松平近説 / 大給近説
松平近説
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政11年7月5日1828年8月15日[1]
死没 明治19年(1886年11月18日
改名 松平近説、大給近説
戒名 心寛院殿仁譽近説樂山大居士[1]
墓所 東京都文京区小石川の伝通院
官位 従五位下左衛門尉正五位
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行若年寄
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
豊後府内藩
氏族 久松松平家大給松平家→大給家
父母 父:松平定永、母:不詳
養父:松平近信
兄弟 定和板倉勝静土岐頼之近説石川総禄正室ら
松平乗全の娘
太田資師の娘
養子:大給近道
テンプレートを表示

松平 近説(まつだいら ちかよし)は、江戸時代後期の大名豊後国府内藩第10代(最後)の藩主。親清流大給松平家14代。幕末に大給(おぎゅう)姓に改名し、大給近説と名乗った。

生涯

伊勢国桑名藩主・松平定永の十一男として誕生した。

天保12年(1841年)7月、松平近信の死去に際し、末期養子として家督を相続する。天保13年(1842年)5月、第12代将軍・徳川家慶御目見する。同年10月、従五位下・左衛門尉に叙任する。14歳で急遽藩主となったため、当初は先々代藩主の近訓が後見役となった。その7年後から政務を執るようになり、藩校・遊焉館や医学館(稽全館)を設置するなど、特に学問の奨励に尽力した。

文久元年(1860年)8月20日、奏者番となる。元治元年(1864年)11月1日、寺社奉行兼任となる。同年12月27日、寺社奉行兼任を解かれる。慶応元年6月15日、再び寺社奉行兼任となる。同年11月12日、御用取次役兼任となる。慶応3年(1867年)7月5日、若年寄となる。同年9月1日、会計奉行兼任となる。同年12月3日、国内事務の担当を命じられる。また、第二次長州征討では小倉に出兵したものの、大政奉還後には国元で勤王派の増沢近篤(虎之丞、近訓の長男)が藩主代理に立てられ、幕府要職にあった近説は裏切られる形となった。

慶応4年(1868年)2月6日、若年寄を辞職した。同年3月20日、松平姓を大給に改めた。同年3月25日、恭順の姿勢を示すため上洛したものの、謹慎を命じられた。中川久昭を仲立ちに謝罪する。同年5月13日、謹慎を解かれる。同年7月10日、ようやく帰藩を許可される。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により府内藩知事に任命された。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により知事職を解任された。同年10月10日、養子近道(1854年 - 1902年、実父は府内藩士族の増沢近篤[2]、8代府内藩主松平近訓の孫)に家督を譲って隠居した。明治18年(1885年)4月13日、正五位に叙される[3]。明治19年(1886年)死去、享年59。

系譜

父母

正室、継室

  • 松平乗全の娘(正室)
  • 太田資師の娘(継室)

養子

  • 大給近道[4] ー 増沢近篤の子

脚注

  1. ^ a b 森潤三郎「探墓記(上)」 『掃苔』第6巻第12号、東京名墓顕彰会、1937年12月、p.370-371。
  2. ^ 日本弘道會評議員 子爵 大給近孝 『大分県人士録』(大分県人士録発行所、1914年)
  3. ^ 『官報』第532号、1885年4月14日。
  4. ^ 家督を継いだ大給近道は明治維新で子爵となり、近道の死後、長男の大給近孝が子爵家を相続した。

外部リンク

当主
先代
松平近信
府内藩大給(松平)家
1841年 - 1871年
次代
大給近道




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松平近説」の関連用語

松平近説のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松平近説のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松平近説 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS