戦闘前の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/21 14:58 UTC 版)
天文18年(1549年)、今川氏が三河国安祥城を占領すると、程なく水野信近の刈谷城も一時占領されるなど織田氏は苦境に立たされ、遂に織田信秀と今川義元の間で和議が結ばれて、西三河・知多半島の水野氏は今川氏の傘下に入ることなどが取り決められた。しかし、天文20年(1551年)に信秀が死ぬと後を継いだ信長は和議を破棄して戦いを再開、今川義元が鳴海城の山口教継を傘下に加えれば、織田信長が大給松平氏を離反させるなど、激しいせめぎ合いが続き、その間に水野氏も再び織田方に付くことになった。 今川氏は水野氏を討つために、兵を西三河に進めて鴫原(現・愛知県知立市上重原町)にある重原城の山岡伝五郎を攻め滅ぼし、水野金吾(水野忠分)の緒川城(現・東浦町)攻略へ向け、村木(同・東浦町)に砦を築いた。 これに呼応し、織田方だった寺本城(現・知多市)が今川方に寝返り、信長の居城・那古野城と緒川城の間の道を塞いだ。このため信長は船で海を渡って寺本城を避け、村木砦を背後から攻撃することにした。 信長の留守中、敵対している清洲城の織田信友が那古野城を攻撃することが予想されたため、信長は義父の斎藤道三に使者を送り、援軍を求めた。
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