戦闘初期
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紛争の初期段階にあった数か月の間に、ユーゴスラビア人民軍の部隊は、サラエヴォを取り囲む丘陵地帯に配置された。大砲やそのほか多くの装備はこのときに持ち込まれたものであり、後に続く包囲戦において重要な役割を果たすことになる。1992年2月、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、ユーゴスラビア政府に対して、これらのユーゴスラビアの軍の配備を中止するよう求めた。このときのユーゴスラビアを事実上支配していたセルビア共和国の大統領スロボダン・ミロシェヴィッチは、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境の外側にいるユーゴスラビア人民軍の一部を撤退させることに同意した。しかし、これらのユーゴスラビア人民軍に属していたセルビア人兵士らは、スルプスカ共和国軍となってボスニア・ヘルツェゴビナ国内にとどまり、ボスニア・ヘルツェゴビナからのスルプスカ共和国の独立を宣言した。 1992年5月2日、ボスニアのセルビア人勢力によるサラエヴォの完全封鎖が完成した。町へと続く主要な道路は封鎖され、食料や医療品の運び込みも不可能となった。水や電気、暖房システムは遮断された。多くのセルビア人兵士らがサラエヴォを取り巻いていた。町を守るボスニア政府軍は数の上ではセルビア人勢力を上回っていたものの、セルビア人勢力はユーゴスラビア連邦から装備を引き継いでおり、また町を見下ろす丘の上に陣取っていたため、地理的な面からも圧倒的優位にあった。ユーゴスラビア人民軍の部隊が町を制圧しようとした最初の武力衝突が失敗に終わったあと、サラエヴォを包囲するセルビア人勢力は、丘の上から繰り返し町への砲撃を加え続け、町を弱らせた。セルビア人勢力は町を取り巻く丘を、少なくとも200を超える強化陣地とトーチカによって要塞化した。
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戦闘初期(2月20〜24日)
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「アウディーイウカの戦い (2022年)」の記事における「戦闘初期(2月20〜24日)」の解説
2月20日、親露派部隊がアウディーイウカで再び戦闘を開始し[出典無効]、DPR部隊が市内に入ったが、撃退された[出典無効]。2月21日、ロシア軍がアウディーイウカの分離主義者を支援していたと報じられたが、ロシアは否定した。
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