バロン西の戦い
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バロン西率いる戦車第26連隊は栗林の戦闘計画に従い、戦闘初期にはできうる限り戦力を温存する計画であったが、アメリカ軍の予想外の進撃に上陸2日目の2月20日には天山砲台、屏風山、二段岩、玉名山を連ねる第2線陣地に前進して22日にはアメリカ軍との戦闘を開始した。これまでの島嶼防衛戦における日本軍戦車は、水際撃滅作戦の主力戦力として位置づけられていたこともあり、サイパンの戦いにおいては2回にわたって、またグアムの戦い や徹底した持久戦を行ったペリリューの戦いにおいてすら、優勢なアメリカ軍部隊に戦車突撃をして、強力なM4 シャーマン中戦車との戦車戦や、バズーカなどの対戦車兵器に一方的に撃破されることが続いていた。西はこれまでの戦訓で日本軍戦車がアメリカ軍戦車に戦車戦では敵わないことや、また、岩山だらけの硫黄島の地形が戦車の機動戦には不向きと判断して、戦車を掘った穴に埋めるか窪みに入り込ませて、地面から砲塔だけをのぞかせトーチカ替わりにしてアメリカ軍を迎え撃った。ただし、西は戦車を機動兵器として使用するつもりであったが、栗林の命令で渋々トーチカ代わりの運用にしたという説もある。一度決めたこの戦術について西は忠実に遂行し、時には戦車を防御兵器として使用するのに反対した中隊長と激しい議論をして説き伏せることもあった。 2月26日の元山飛行場付近の戦闘においては、戦車第26連隊第3中隊が地中に埋めた戦車とトーチカ内の90式野砲で迎え撃ったが、戦車26輌で進撃してくるアメリカ軍に猛砲撃を浴びせて3輌のM4 シャーマン中戦車を撃破して撃退した。海兵隊の公式記録ではこの日の戦闘を「元山飛行場の北端に進出したのち、突然、すさまじい日本軍の砲撃にみまわれた。明らかに、入念に照準をすませていたと見え、砲弾は直線的に戦車の砲塔をねらってきた。3輌の損害ですんだのは、敵の砲が固定され、射角が狭かったためと見られる」と戦車第26連隊第3中隊の砲撃は正確であったと評している。戦車隊は撤退したが、火炎放射器を装備した海兵隊員が1人負傷し逃げ遅れて捕虜となり西の前に連れてこられて尋問された。西はその海兵隊員が持っていた「早く帰ってきなさい。母はそれだけを待っています」という手紙を見ると「どこの国でも人情に変わりはないなぁ」と悲しい表情をして、その海兵隊員にできうる限りの看護を行ったが、看護も空しく翌日27日に西に感謝をしながら息を引き取った。 西は戦車をただ埋めているだけではなく、戦況に応じては土中や窪みから出撃させ海兵隊員を苦しめた。2月28日には元山飛行場を制圧した第21海兵連隊が、362a高地(日本名:大阪山)に迫撃砲と戦車砲の支援を受けて前進してきたが、同連隊の1個小隊が歩兵だけで前進してくるのを確認した戦車第26連隊第2中隊(中隊長斎藤矩夫大尉)が、90式野砲の援護を受けながら九五式軽戦車を斜面の洞窟から海兵隊に突撃した。突然の戦車攻撃に海兵隊小隊は大損害を被ったが、グアムの戦いで有名を轟かせた、エドワード・V・ステフェンソン大尉自らがバズーカと火炎放射器で3輌の九五式軽戦車を撃破、その後に支援に飛来した戦闘爆撃機が2輌の九五式軽戦車を撃破した。それでも、戦車を撃破された斎藤らは手榴弾で最後まで海兵隊と戦闘を継続した。また、元山飛行場においても戦車第26連隊第3中隊が戦車2輌を1組として突撃し、飛行場付近の海兵隊員を蹴散らしながら前進を続けた。これらの戦闘で戦車第26連隊は中戦車2輌、軽戦車8輌と戦車兵80人を失ったが、海兵隊員に多くの死傷者を被らせ、たまらずアメリカ軍は煙幕を展開しながら撤退する一幕もあった。このように西はアメリカ軍に大損害を与えたが、2月が終わるころには戦車の8割が撃破されていた。3月6日には機動できる戦車は1輌もなくなってしまったが、整備兵たちは擱座して自走できなくなった戦車に土嚢を積み上げトーチカとして戦い続けていた。同日には連隊の大谷道雄中尉が地雷による肉薄攻撃で2輌のM4 シャーマン中戦車を擱座させ、残っていた90式野砲でさらに1輌のM4 シャーマン中戦車を撃破するという戦功を挙げている。 3月7日、アメリカ軍は戦車第26連隊主力の残存が立て籠もっていた362C高地(日本名:東山)に進撃してきたが、西は進撃してきた第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊E中隊とF中隊を待ち伏せして巧みに包囲すると、集中攻撃を加えて両中隊に大損害を被らせた。包囲された部隊の指揮官はのちにアメリカ海兵隊総司令官となったロバート・クッシュマン(英語版)少佐であり、のちに包囲された地点はクッシュマンの名前から「クッシュマンズ・ポケット」と呼ばれることとなった。両中隊を救援するため第9海兵連隊の他の部隊も進撃してきたが、戦車第26連隊も頑強に抵抗を続けて、連日地下陣地に立て籠もって、海兵隊員と熾烈な肉弾戦を展開した。連隊の戦車兵はアメリカ軍が放棄していたM4 シャーマン中戦車に乗り込むと搭載砲でアメリカ軍に砲撃を浴びせた。この後、2週間にも渡って西はこの陣地を確保し続けるが、その巧みな防衛戦は栗林が目指した戦術を最も忠実に展開したものとなった。アメリカ軍は硫黄島の戦いが終わったのちに日本軍の戦術を「日本軍の戦術を概して言うと、アメリカ軍の弾幕射撃の間は地下に潜み、そして前進するアメリカ軍部隊を射撃するため地上に出るというものだった。攻撃側が一時的に釘付けにされると、数名の銃手を残し、多くの兵はトンネルを通って他に移動する。アメリカ軍が陣地を奪取するとわずかな死体しか残っておらず、部隊の大部分は既に他の洞窟に退いている、この繰り返しである」と分析しているが、戦車第26連隊の兵士はまさにアメリカ軍のこの分析の通り、戦車や海兵隊員が地下の日本兵の頭上を通過すると、地下から這い出て背後からアメリカ軍に攻撃を加え、火炎放射器を装備した海兵隊員が慌てて日本兵の隠れていそうな場所に火炎放射すると、今度は違う場所から出てきた日本兵が背後からその海兵隊員に機関銃弾を浴びせるといった戦闘を延々と繰り広げた。第3海兵師団グレーブス・アースキン師団長はあまりの損害に「勝利は決して疑いの余地がなかった。しかし、私たちの心の中で疑わしかったのは、最後に墓地を捧げるために私たちの誰が生き残っているかだった」と述べている。 しかし、増援も補給もない戦車第26連隊は次第に戦力を失っていき、3月17日には後方との連絡が取れなくなった。西に対しては「オリンピックの英雄、バロン西」などとアメリカ軍が投降を呼びかけたとする証言もあるが、事実であったかは定かでなく、また最後の状況も不明である。西らと行動を共にしながら生還した海軍軍属の内田忠治の証言によれば、3月22日に顔の半分を火傷して包帯を巻き、片目が失明していた西が陣地を脱出して北戦線に合流しようとしたが果たせず、戦車の砲撃によって戦死したということである。またほかにも、西が200人の生存者を率いて最後の突撃を行い、終日敵を斬りまくって最後は北部断崖に達してそこで切腹して自決したという証言もある。さらに、西が海兵隊のアムタンクを奪取して戦闘中に車内で戦死し、遺体の軍服に入っていた手紙と写真から西であると判明したという海兵隊語学兵の証言もあるなど、夫人の西武子は、西の最後と関する情報を5通りも聞かされている。 一方、戦車第26連隊に包囲された第9海兵連隊第2大隊E中隊とF中隊は殆どの海兵隊員が死傷し、無事だったのは指揮官のクッシュマン以下わずか10人であり文字通り全滅している。
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