バロン西の戦いとは? わかりやすく解説

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バロン西の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 17:00 UTC 版)

硫黄島の戦い」の記事における「バロン西の戦い」の解説

バロン西率い戦車26連隊栗林戦闘計画従い戦闘初期にはできうる限り戦力温存する計画であったが、アメリカ軍予想外進撃上陸2日目2月20日には天山砲台屏風山二段岩、玉名山を連ねる第2線陣地前進して22日にはアメリカ軍との戦闘開始したこれまでの島嶼防衛戦における日本軍戦車は、水際撃滅作戦主力戦力として位置づけられていたこともあり、サイパンの戦いにおいては2回にわたって、またグアムの戦い徹底した持久戦行ったペリリューの戦いにおいてすら、優勢なアメリカ軍部隊戦車突撃をして、強力なM4 シャーマン中戦車との戦車戦や、バズーカなどの対戦車兵器一方的に撃破されることが続いていた。西はこれまでの戦訓日本軍戦車アメリカ軍戦車戦車戦では敵わないことや、また、岩山だらけの硫黄島地形戦車機動戦には不向き判断して戦車掘った穴に埋めるか窪み入り込ませて、地面から砲塔だけをのぞかせトーチカ替わりにしてアメリカ軍迎え撃った。ただし、西は戦車機動兵器として使用するつもりであったが、栗林命令渋々トーチカ代わり運用にしたという説もある。一度決めたこの戦術について西は忠実に遂行し時には戦車防御兵器として使用するのに反対した中隊長激し議論をして説き伏せることもあった。 2月26日元山飛行場付近戦闘においては戦車26連隊第3中隊地中埋めた戦車トーチカ内の90式野砲迎え撃ったが、戦車26輌で進撃してくるアメリカ軍に猛砲撃浴びせて3輌のM4 シャーマン中戦車撃破し撃退した海兵隊公式記録ではこの日の戦闘を「元山飛行場北端進出したのち、突然、すさまじ日本軍砲撃みまわれた。明らかに入念に照準すませていたと見え砲弾直線的に戦車砲塔ねらってきた。3輌の損害ですんだのは、敵の砲が固定され射角狭かったためと見られる」と戦車26連隊第3中隊砲撃は正確であった評している。戦車隊撤退したが、火炎放射器装備した海兵隊員1人負傷し逃げ遅れて捕虜となり西の前に連れてこられて尋問された。西はその海兵隊員持っていた「早く帰ってきなさい。母はそれだけ待っています」という手紙を見ると「どこの国でも人情変わりはないなぁ」と悲しい表情をして、その海兵隊員にできうる限り看護行ったが、看護空しく翌日27日に西に感謝しながら息を引き取った。 西は戦車をただ埋めているだけではなく戦況に応じて土中窪みから出撃させ海兵隊員苦しめた2月28日には元山飛行場制圧した21海兵連隊が、362a高地日本名大阪山)に迫撃砲戦車砲支援受けて前進してきたが、同連隊の1個小隊歩兵だけで前進してくるのを確認した戦車26連隊第2中隊中隊長斎藤矩夫大尉)が、90式野砲援護を受けながら九五式軽戦車斜面洞窟から海兵隊突撃した。突然の戦車攻撃海兵隊小隊大損害を被ったが、グアムの戦いで有名を轟かせた、エドワード・V・ステフェンソン大尉自らがバズーカ火炎放射器で3輌の九五式軽戦車撃破その後支援飛来し戦闘爆撃機が2輌の九五式軽戦車撃破した。それでも、戦車撃破された斎藤らは手榴弾最後まで海兵隊戦闘継続したまた、元山飛行場においても戦車26連隊第3中隊戦車2輌を1組として突撃し飛行場付近海兵隊員蹴散らしながら前進続けた。これらの戦闘戦車26連隊中戦車2輌、軽戦車8輌と戦車兵80人を失ったが、海兵隊員多く死傷者を被らせ、たまらずアメリカ軍煙幕展開しながら撤退する一幕もあった。このように西はアメリカ軍大損害を与えたが、2月が終わるころには戦車の8割が撃破されていた。3月6日には機動できる戦車は1輌もなくなってしまったが、整備兵たちは擱座して自走できなくなった戦車土嚢積み上げトーチカとして戦い続けていた。同日には連隊大谷道雄中尉地雷による肉薄攻撃で2輌のM4 シャーマン中戦車擱座させ、残っていた90式野砲でさらに1輌のM4 シャーマン中戦車撃破するという戦功挙げている。 3月7日アメリカ軍戦車26連隊主力残存立て籠もっていた362C高地日本名東山)に進撃してきたが、西は進撃してきた第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊E中隊とF中隊待ち伏せして巧みに包囲すると、集中攻撃加えて中隊大損害を被らせた。包囲され部隊指揮官はのちにアメリカ海兵隊総司令官となったロバート・クッシュマン(英語版少佐であり、のちに包囲され地点はクッシュマンの名前から「クッシュマンズ・ポケット」と呼ばれることとなった。両中隊救援するため第9海兵連隊の他の部隊進撃してきたが、戦車26連隊頑強に抵抗続けて連日地下陣地立て籠もって、海兵隊員熾烈な肉弾戦展開した連隊戦車兵アメリカ軍放棄していたM4 シャーマン中戦車乗り込む搭載砲でアメリカ軍砲撃浴びせたこの後2週間にも渡って西はこの陣地確保し続けるが、その巧み防衛戦栗林目指し戦術を最も忠実に展開したものとなったアメリカ軍硫黄島の戦い終わったのちに日本軍戦術を「日本軍戦術概して言うと、アメリカ軍弾幕射撃の間は地下に潜み、そして前進するアメリカ軍部隊射撃するため地上に出るというものだった攻撃側一時的に釘付けにされると、数名銃手残し多くの兵はトンネル通って他に移動するアメリカ軍陣地奪取するわずかな死体しか残っておらず、部隊大部分は既に他の洞窟退いている、この繰り返しである」と分析しているが、戦車26連隊兵士はまさにアメリカ軍この分析の通り戦車海兵隊員地下日本兵頭上通過すると、地下から這い出て背後からアメリカ軍攻撃加え火炎放射器装備した海兵隊員慌てて日本兵隠れていそうな場所に火炎放射すると、今度は違う場所から出てきた日本兵背後からその海兵隊員機関銃弾を浴びせるといった戦闘延々と繰り広げた第3海兵師団グレーブス・アースキン師団長はあまりの損害に「勝利決し疑い余地がなかった。しかし、私たち心の中疑わしかったのは、最後に墓地捧げるために私たち誰が生き残っているかだった」と述べている。 しかし、増援補給もない戦車26連隊次第戦力失っていき、3月17日には後方との連絡取れなくなった。西に対しては「オリンピック英雄バロン西」などとアメリカ軍投降呼びかけたとする証言もあるが、事実であったかは定かでなく、また最後状況不明である。西らと行動を共にしながら生還した海軍軍属内田忠治証言によれば3月22日に顔の半分火傷し包帯巻き片目失明していた西が陣地脱出して戦線合流しようとした果たせず、戦車砲撃によって戦死したということである。またほかにも、西が200人の生存者率いて最後突撃行い終日敵を斬りまくって最後北部断崖達してそこで切腹し自決したという証言もある。さらに、西が海兵隊のアムタンクを奪取して戦闘中車内戦死し遺体軍服入っていた手紙写真から西であると判明したという海兵隊語学兵の証言もあるなど、夫人西武子は、西の最後関す情報を5通り聞かされている。 一方戦車26連隊包囲された第9海兵連隊第2大隊E中隊とF中隊は殆どの海兵隊員死傷し無事だったのは指揮官のクッシュマン以下わずか10人であり文字通り全滅している。

※この「バロン西の戦い」の解説は、「硫黄島の戦い」の解説の一部です。
「バロン西の戦い」を含む「硫黄島の戦い」の記事については、「硫黄島の戦い」の概要を参照ください。

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