バロン戦争へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 15:20 UTC 版)
経過報告を受けていたローマ教皇インノケンティウス3世が、6月下旬に貴族条項ないしマグナ・カルタの廃棄を命じた。イングランド国王は神と教会以外の約束に縛られるものではないとして、キリスト教の復権を図った。令状は9月下旬に王と貴族の双方へ届けられた。3か月の郵送期間には既得権が成立していた。マグナ・カルタはジョン王にロンドンを明け渡すことを定めていたが、3か月が過ぎてもロンドン市民は行政長官の支配を許さなかった。例の25人がロンドンに軍を保持していたのである。かたや25人の代表団はマグナ・カルタによって所領の自治を実現した。彼らは10州で自分たちの州長官を任命した。 教皇の支持を得たジョンが再び争うと、貴族らはフランスのルイ王太子(のちのルイ8世)に王位を提供しようとした。 1216年10月、ジョンが死ぬとルイ王太子がロンドンへ侵攻した(第一次バロン戦争)。マグナ・カルタはヘンリー3世の摂政ウィリアム・マーシャルの元で再確認され、バロン戦争を終結させた。そしてこのときやっと、御料林憲章(Charter of the Forest)が公布された。 ヘンリー3世はその後マグナ・カルタを守らなかったため、たびたび再確認・修正された。
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