バロン戦争と第2次バロン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/05 02:40 UTC 版)
「サウェリン・アプ・グリフィズ」の記事における「バロン戦争と第2次バロン戦争」の解説
おりしもイングランドではヘンリー3世と諸侯の争い(バロン戦争)が続いており、その間隙を縫ってウェールズ辺境(英語版)の諸侯領に侵攻し領土を拡大し、レスター伯シモン・ド・モンフォールと同盟を結んでイングランド王と対抗した。1265年にシモン・ド・モンフォールが政権を握ると有利な条件で講和し、ウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)を承認された。 第2次バロン戦争(1264年 - 1267年)では、1265年8月4日のイーブシャムの戦い(英語版)でシモン・ド・モンフォールが敗死した後もイングランドの動揺が続く中で、1267年にヘンリー3世からイングランドの宗主権を認める条件でウェールズ大公を認められた。 しかしサウェリンは、ウェールズ大公としてグウィネズ公の伝統的な支配地域である北部を支配するに飽き足らず、ウェールズを真に統一することを目指して領土の拡大をはかっていたので、南部の諸侯から激しい敵視を受けるようになった。また、イングランドが安定してくるとヘンリー3世およびその後継者エドワード1世や辺境諸侯たちも以前の失地の回復を試みるようになり対立関係が続いた。
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