爆風と雷撃の衝撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:51 UTC 版)
レイテ沖海戦において、武蔵は第一次空襲の際に主砲射撃方位盤が故障し、主砲射撃指揮所からの統一射撃が不可能になり、第二次空襲以降では各砲塔による各個照準及び射撃となったと言われている。ただし、武蔵の主砲第一発令所の九七式射撃盤を担当した布田昇の証言によると「まず第一波の攻撃で命中した魚雷のため、前部方位盤の旋回部分が歪んでしまい、旋回不能となった。直ちに後部方位盤に切り替え、戦闘を続行」ともあり[いつ?]、射撃方位盤故障がどの程度砲撃に影響したのかは不明である。 武蔵の加藤副長付信号兵として第二艦橋に勤務していた細谷四郎兵曹によれば、武蔵が主砲を発射したのは昼食を食べ終えてからの最初の空襲で、午後1時30分 - 午後2時頃と証言している。さらに一番砲塔に装填された砲弾が砲身内で爆発する危険性が報告され、「右砲戦方位90度、三万、各砲塔発射」命令が越野砲術長から出された。細谷の証言によれば、午前中の空襲で主砲発射爆風被害と言われるものは副砲、午後には主砲爆風が含まれていることになる。 先にも触れたとおり、前檣楼トップの主砲指揮所の射撃盤は、大和はトラック島沖で、武蔵はレイテ沖海戦で、各々一発の魚雷命中の衝撃により、戦闘初期にすでにズレ(大和)、旋回不能(武蔵)となっているとされ、爆風被害ではなく雷撃衝撃が射撃盤を狂わせたと考えられる。武蔵と運命を共にした艦長猪口敏平少将(砲術の大家と名高かった)の遺書にも耐衝撃性を上げるよう改善する必要があると記されている。 また、1944年(昭和19年)10月25日の対空戦闘について、大和の戦闘詳報には「後部主砲塔射撃のため、後部左舷所在の機銃員数名が火傷を負う」という記述があり、機銃に対する通報に齟齬があった要因が、射撃方位盤だけでないことも伺える、主砲射撃による爆音の中での、機銃群への迅速通達は容易ではないことから、3番主砲塔と後部機銃群との間に砲塔危険界通報装置の設置が要望されている。
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