大給藩とは? わかりやすく解説

奥殿藩

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奥殿藩(おくとのはん)は、三河国額田郡奥殿陣屋愛知県岡崎市奥殿町)に藩庁を置いた。領地は三河国額田郡・加茂郡(現在の愛知県岡崎市)のほか信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)に存在し、信濃国の領地の方が大きかった。藩庁は何度か移転しており、江戸時代初期の立藩時には加茂郡の大給陣屋、幕末期には信濃国の龍岡城(田野口陣屋)に置かれた。大給藩(おぎゅうはん)、田野口藩(たのくちはん)・龍岡藩(たつおかはん)についても、実質的に同一の藩であることからこの項目で記述する。


  1. ^ 一坂(2014年)p.45
  2. ^ a b c 一坂(2014年)p.46
  3. ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1975年度撮影)
  4. ^ 一坂(2014年)pp.45-46
  5. ^ 一坂(2014年)p.47
  6. ^ 一坂(2014年)p.48


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大給藩

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奥殿藩」の記事における「大給藩」の解説

大給松平家徳川家康5代前の松平家当主松平親忠次男松平乗元より始まる一族で、代々松平宗家譜代家臣として仕えた。第5代当主松平真乗次男徳川秀忠仕えた松平真次は、大坂の役の功などにより加増を受ける際、知行地として先祖ゆかりの三河加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を望み6000石の旗本としてこの地に陣屋構えた。真次の子・松平乗次は、大坂定番となって摂津国河内国丹波国などで1万石を加増され、1万6000石の大名となった宝永元年1704年)、第3藩主松平乗真の代に、近畿地方など領地1万2000石に代り信濃国佐久郡田野口に同石高領地与えられた。また乗真は、大給が山間にあって交通の便悪く手狭となったことを理由とし、正徳元年1711年4月28日藩庁領内の奥殿に移転した

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大給藩

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奥殿藩」の記事における「大給藩」の解説

譜代1万6000石。 松平乗次のりつぐ従五位下 縫殿松平乗成(のりなり) 従五位下 縫殿松平乗真(のりざね) 従五位下 縫殿

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