丹羽氏
一色丹羽氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 20:14 UTC 版)
この丹羽氏(一色丹羽氏)は、信長に仕えてその四天王(織田四天王)にまでなった丹羽長秀と血縁関係の無い別の一族である。源義家の12代子孫の氏明が、尾張国丹羽郡の丹羽荘に住んで丹羽氏を称した。その9代子孫の丹羽氏勝が織田信長に仕えた。その長男丹羽氏次は尾張国の岩崎城を本拠地として織田信雄の家臣時代を経て、最終的には徳川家康に仕えて慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し戦功を挙げる。功が認められ、氏次は三河国伊保藩1万石の第3代藩主となったが寛永15年(1638年)には伊保藩は廃藩となり、岩村藩へ2万石で入った。第4代藩主の丹羽氏定は正保3年(1646年)11月11日、弟の丹羽氏春に1000石を分与したため、1万9000石となる。しかし第7代藩主・丹羽氏音の時代に藩財政の困窮を救うため、新進の山村瀬兵衛を側用人として抜擢し数年にして財政改革を成し遂げた。しかし旧来からの丹羽氏の家臣達から憎まれて騒然としてきたので、氏音は山村瀬兵衛に身を退くように勧めたが、山村瀬兵衛が幕府に内情を訴えたために御家騒動となり、幕府からそれを咎められて、浅井新右衛門・田湖平蔵・西尾治太夫・須賀金左衛門は斬首。妻木郷左衛門は遠島とされ、その他25人は追放処分となった。氏音は政令疎怠の理由で1万石に減らされて元禄15年(1702年)6月22日、越後高柳藩へ移封され、さらに氏音の養子・丹羽薫氏は延享3年(1746年)に播磨国三草藩に転封されて明治維新まで続いた。明治維新後は華族令により子爵となった。
※この「一色丹羽氏」の解説は、「岩村藩」の解説の一部です。
「一色丹羽氏」を含む「岩村藩」の記事については、「岩村藩」の概要を参照ください。
一色丹羽氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:37 UTC 版)
「大名墓地 (岐阜県恵那市)」の記事における「一色丹羽氏」の解説
織田信長に仕えた丹羽氏勝の長男丹羽氏次は尾張国の岩崎城を本拠地とし、近くに菩提寺として大椿山 妙仙寺を建てた。織田信雄の家臣時代を経て、最終的には徳川家康に仕えて慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し戦功を挙げ、氏次は三河国伊保藩1万石の藩主となったが寛永15年(1638年)には伊保藩は廃藩となり、岩村藩へ2万石で入った。その際、大給松平氏が建てた龍厳寺の跡に妙仙寺を建て、その墓地に丹羽氏信・氏定・氏純・氏明の墓を建てた。しかし第5代藩主・丹羽氏音の時代に藩財政の困窮を救うため、新進の山村瀬兵衛を側用人として抜擢し数年にして財政改革を成し遂げたものの、旧来からの丹羽氏の家臣達から憎まれて騒然としてきたので、氏音は山村瀬兵衛に身を退くように勧めたが、山村瀬兵衛が幕府に内情を訴えたために御家騒動となり、幕府からそれを咎められて、氏音は政令疎怠の理由で1万石に減らされて元禄15年(1702年)6月22日、越後高柳藩へ移封され、さらに氏音の養子・丹羽薫氏は延享3年(1746年)に播磨国三草藩に転封されて明治維新まで続いた。妙仙寺は、丹羽氏が三草藩に移った時に播磨へ移転し、現在は兵庫県加東市上三草にある。そのため岩村藩主であった丹羽氏信・氏定・氏純・氏明の墓は、大名墓地に家臣の墓とともに残されている。
※この「一色丹羽氏」の解説は、「大名墓地 (岐阜県恵那市)」の解説の一部です。
「一色丹羽氏」を含む「大名墓地 (岐阜県恵那市)」の記事については、「大名墓地 (岐阜県恵那市)」の概要を参照ください。
- 一色丹羽氏のページへのリンク