丹羽長徳とは? わかりやすく解説

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丹羽長徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/28 00:18 UTC 版)

丹羽長徳
にわ ながのり
生年月日 1873年8月4日
没年月日 (1947-11-20) 1947年11月20日(74歳没)
出身校 学習院修了
所属政党 研究会
配偶者 丹羽組子
親族 兄・伊達宗陳(貴族院議員)
弟・二荒芳徳(貴族院議員)
義弟・丹羽長保(貴族院議員)

在任期間 1911年7月10日 - 1925年7月9日
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丹羽 長徳(にわ ながのり、1873年明治6年)8月4日[1] - 1947年昭和22年)11月20日[1][注 1])は、明治から大正期の政治家華族貴族院子爵議員。旧名・伊達誠一[1][2]

経歴

宇和島藩主・伊達宗徳の六男として生まれ、1902年(明治35年)9月、子爵丹羽長国の養子となり長徳と改名[1][2][3]。養父の死去に伴い、1904年(明治37年)1月23日、子爵を襲爵した[1][2][3][4]

学習院を修了し、農村経済に関する調査に従事した[3][5]

1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[6][7]研究会に所属して活動し[5]1925年(大正14年)7月9日まで2期在任した[5]

親族

  • 妻 - 丹羽組子(くみこ、丹羽長国五女)[1]
  • 長女 - 岩崎誠子(せいこ、岩崎清一郎の妻)[1]
  • 二女 - 武藤文子(ふみこ、武藤金太の妻)[1]
  • 長男 - 丹羽孝一(こういち、1910-1951) ‐ 17代目当主[1] 。妻のヤスは前山久吉の娘[8]
  • 孫 - 丹羽長聰(ながとし、18代目当主。東京二本松会会長)[9]

脚注

注釈

  1. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』50頁では11月22日。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成』下巻、333-334頁。
  2. ^ a b c 『華族畫報 下』806-807頁。
  3. ^ a b c 『人事興信録 第14版 下』ニ5頁。
  4. ^ 『官報』第6167号、明治37年1月25日。
  5. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』50頁。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、20頁。
  7. ^ 『官報』第8427号、明治44年7月25日。
  8. ^ 前山久吉歴史が眠る多磨霊園
  9. ^ 【S08】戦国大名の栄枯盛衰 講師プロフィール”. 学習院さくらアカデミー. 2018年7月13日閲覧。

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
  • 杉謙二編『華族畫報 下』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。


日本の爵位
先代
丹羽長国
子爵
二本松丹羽家第4代
1904年 - 1947年
次代
華族制度廃止
先代
丹羽長国
丹羽家二本松)当主
第15代:1904年 - 1947年
次代
丹羽孝一



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