伝えられる事績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 13:55 UTC 版)
「松平忠政 (松平広忠の子)」の記事における「伝えられる事績」の解説
『寛政重修諸家譜』(以下、『寛政譜』)によれば、幕臣の松平彦大夫忠元らの呈譜や酒井忠道家臣(姫路藩士)松平孫三郎久典の系譜に松平忠政が先祖として示され、また三河国法蔵寺や広忠寺の記録にも名が見られるという。それらによれば、松平忠政の経歴は以下の通り。 母は大給松平氏の松平乗正の娘(名は「お久の方」)。於大の方が岡崎城に輿入れすると、母は忠政を連れて三河国桑谷村(現愛知県岡崎市)へ移り住んだ。その後、徳川家康と同日に同母弟が生まれ、僧侶となることが定められた(のちの樵臆恵最で、広忠寺初代住職となった)。 永禄4年(1561年)、酒井正親が西尾城を攻めた際には、家康の命により正親に加勢した。後に三河国額田郡に領地を賜い、従五位下右京大夫に叙された。慶長4年(1599年)没、享年59歳。三河国山中村の法蔵寺に葬られた。 忠政には孫三郎康久、右京進長清の2人の子があった。康久は松平信康に仕え、信康の死後は父のゆかりで酒井重忠(酒井正親の子)に属した。その子孫は代々酒井雅楽頭家の家臣となり、『寛政譜』編纂時の姫路藩士松平久典の家である。長清の末裔は幕臣となって数家に分かれた。『寛政譜』編纂時には子孫として松平彦大夫忠元・松平万之助政備・松平平十郎政親の3家が続いている。
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