田野口藩とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 学問 > 歴史民俗用語 > 田野口藩の意味・解説 

田野口藩

読み方:タノクチハン(tanokuchihan)

信濃佐久郡田野口藩名

別名 竜岡藩


奥殿藩

(田野口藩 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/24 06:54 UTC 版)

奥殿藩(おくとのはん)は、三河国額田郡奥殿陣屋愛知県岡崎市奥殿町)に藩庁を置いた。領地は三河国額田郡・加茂郡(現在の愛知県岡崎市)のほか信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)に存在し、信濃国の領地の方が大きかった。藩庁は何度か移転しており、江戸時代初期の立藩時には加茂郡の大給陣屋、幕末期には信濃国の龍岡城(田野口陣屋)に置かれた。大給藩(おぎゅうはん)、田野口藩(たのくちはん)・龍岡藩(たつおかはん)についても、実質的に同一の藩であることからこの記事で記述する。

大給藩としての立藩より幕末まで石高(1万6000石)は変わらず、一貫して松平家大給松平家)が支配した。

藩史

大給
奥殿
名古屋
岡崎
関連地図(愛知県)[注釈 1]
龍岡
(田野口)
岩村田
長野
関連地図(長野県)

大給藩

大給松平家は徳川家康の5代前の松平家当主・松平親忠の次男・松平乗元より始まる一族で、代々松平宗家に譜代の家臣として仕えた。第5代当主・松平真乗の次男で徳川秀忠に仕えた松平真次は、大坂の陣の功などにより加増を受ける際、知行地として先祖ゆかりの三河加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を望み、6000石の旗本としてこの地に陣屋を構えた。真次の子・松平乗次は、大坂定番となって摂津国河内国丹波国などで1万石を加増され、1万6000石の大名となった。

宝永元年(1704年)、第3代藩主・松平乗真の代に、近畿地方など領地1万2000石に代り、信濃国佐久郡田野口に同石高の領地が与えられた。また乗真は、大給が山間にあって交通の便も悪く手狭となったことを理由とし、正徳元年(1711年4月28日、藩庁を領内の奥殿に移転した。

奥殿藩

奥殿移転後も、享保年間には矢作川の洪水、飢饉を原因とする年貢半減を求める強訴などが起こった。天明年間にも天候不順から凶作となり、そのために藩内で暴動が起こった。

このような中で第7代藩主となった松平乗利は有能な名君で、90歳以上の者に対しては長寿を称えるということから毎年、米を100苞与えた。さらに文武を奨励して演武場、藩校明徳館などを創設している。天保4年(1833年)の凶作時には、窮民に対する救済も万全に行なうなど、他の歴代藩主と比較して賞賛されるほどの藩政を行なっている。

乗利の跡を継いだ松平乗謨(のりかた)のもとで幕末期を迎える。幼少より学問を好んだ乗謨は[1]、海陸御備向を経て、文久3年(1863年)1月に大番頭に、同年8月には若年寄に抜擢された。

文久3年(1863年)、乗謨は信濃国への陣屋移転・新築許可を江戸幕府から得る。奥殿藩の領地の大部分があった信濃国佐久郡田野口への移転は念願であり[2]、幕府による参勤交代緩和(文久の改革)などを好機と見て届け出たものである[2]。幕末の国内情勢緊迫の中で、東海道沿いにあって動乱に巻き込まれることが懸念される手狭な奥殿から退避する意味もあったという[2]

なお、三河国の領民の多くはこの移転に反対して、嘆願書を差し出すなど騒動が生じている。

田野口藩(龍岡藩)

龍岡城[3]
蕃松院

信濃国への藩庁移転後、この藩は田野口藩と呼ばれる。西洋の築城術に関心を寄せていた乗謨は、新しい陣屋を稜堡式城郭(星形要塞)とすることを計画[4]元治元年(1863年)より田野口村で築城を開始した。田野口陣屋(龍岡城)は、函館の五稜郭とともに日本に2例のみの星形要塞である。慶応3年(1867年)4月には城郭内の御殿が竣工したが[5]、城郭としては未完成のまま明治維新を迎えたという。

藩政においてはいちはやくフランス式の軍制を導入し、龍岡城内に設けた練兵場で訓練を行った[6]。乗謨は、慶応元年(1865年)に陸軍奉行、慶応2年(1866年)に老中陸軍総裁に任じられ、江戸幕府を支えるために奔走した。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争に際し乗謨は陸軍総裁・老中を辞任、新政府に帰順した。新政府軍に参加し、北越戦争で戦死した藩士の墓が蕃松院(佐久市田口)にある。なお、藩の名称は、慶応4年(1868年)5月28日に龍岡藩に改称されている。明治4年(1871年)、財政破綻のために廃藩を申請し、廃藩置県に先立って廃藩となる。

なお、乗謨は明治維新後に大給恒(おぎゅう・ゆずる)と改名、日本赤十字社の前身である博愛社を創設、賞勲局総裁などを務めるなど明治政府の下でも活動した。明治17年(1884年)に子爵、明治40年(1907年)に伯爵に昇った。

歴代藩主

松平(大給)家

大給藩

譜代。1万6000石。

  1. 松平乗次(のりつぐ) 従五位下 縫殿頭
  2. 松平乗成(のりなり) 従五位下 縫殿頭
  3. 松平乗真(のりざね) 従五位下 縫殿頭

奥殿藩

譜代。1万6000石。

  1. 松平乗真(のりざね) 従五位下 縫殿頭 【正徳元年4月28日藩主就任-享保元年7月5日死去】
  2. 松平盈乗(みつのり) 従五位下 縫殿頭 【享保元年9月5日藩主就任-寛保2年5月21日死去】
  3. 松平乗穏(のりやす) 従五位下 石見守 【寛保2年7月13日藩主就任-天明2年11月21日隠居】〔大番頭。二条城在番〕
  4. 松平乗友(のりとも) 従五位下 兵部少輔 【天明2年11月21日藩主就任-寛政2年3月6日隠居】
  5. 松平乗尹(のりただ) 従五位下 主水正 【寛政2年3月6日藩主就任-享和2年12月2日隠居】〔大坂加番〕
  6. 松平乗羨(のりよし) 従五位下 縫殿頭 【享和2年12月6日藩主就任-文政10年8月23日死去】〔大坂加番。大番頭。二条城在番〕
  7. 松平乗利(のりとし) 従五位下 石見守 【文政10年10月16日藩主就任-嘉永5年3月5日隠居】〔大坂加番〕
  8. 松平乗謨(のりかた) 正四位下 縫殿頭 【嘉永5年3月7日藩主就任-文久3年9月11日移転】〔大番頭。若年寄。海陸御備向掛〕

田野口藩(龍岡藩)

譜代。1万6000石。

  1. 松平乗謨(のりかた) 正四位下 縫殿頭 〔老中格陸軍総裁

幕末の領地

取出町村 343石024994・跡部村 627石122986・下小田切村 549石973022・湯原新田村 24石781000・大沢新田村 34石423000・上村新田村 78石656998・中村 163石404999・原村 497石704010・鍛冶屋村 331石575012・湯原村 501石968994・上海瀬村 502石250000・大沢村 833石911011・平林村 311石923004・三分村 794石489014・入沢村 1080石276978・上村 510石514008・田ノ口村 1823石506958・糠尾村 279石825989・上小田切村 502石424988・下村 197石095001・三塚村 610石679016・沓沢村 568石658997・平井村 363石075989・太田部村 277石169006

桑原村 108石129997・川向村 77石669998・宮石村 194石404999・奥山田村 112石897003・奥殿村 500石615997・丹坂村 116石707001・恵田村 296石398010

宮口村 112石150002・菊田村 0石690000・大坪村 274石967987・大垣内村 72石876999・中垣内村 158石744003・二井寺村 40石245998・国閑村 87石990997・下屋敷村 68石066002・月畑村 12石000000・大給村 61石594002・大田村 98石367996・大井村 83石987000・南細田村 87石139999・中村 74石242996・茅原村 63石957001・下国谷村 152石718002・七売村 86石696999・桑原田村 56石403000・下佐切村 37石340000・足原村 50石259998・押手村 129石522995・漆畠村 42石500000・能見村 127石915001・東加塩村 160石837006・二口村 33石326000・大津村 81石697998・椿木村 64石722000・歌石村 78石051003

脚注

注釈

  1. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。

出典

  1. ^ 一坂(2014年)p.45
  2. ^ a b c 一坂(2014年)p.46
  3. ^ 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1975年度撮影)
  4. ^ 一坂(2014年)pp.45-46
  5. ^ 一坂(2014年)p.47
  6. ^ 一坂(2014年)p.48

参考文献

関連項目

外部リンク

先代
信濃国三河国
行政区の変遷
1863年 - 1871年 (田野口藩→龍岡藩)
次代
中野県(信濃国)
伊那県(三河国)

田野口藩(龍岡藩)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 17:50 UTC 版)

奥殿藩」の記事における「田野口藩(龍岡藩)」の解説

信濃国への藩庁移転後、この藩は田野口藩と呼ばれる西洋築城術関心寄せていた乗謨は、新し陣屋稜堡式城郭星形要塞)とすることを計画元治元年1863年)より田野口築城開始した田野口陣屋龍岡城)は、函館五稜郭とともに日本に2例のみの星形要塞である。慶応3年1867年4月には城郭内の御殿竣工したが、城郭としては未完成のまま明治維新迎えたという。 藩政においてはいちはやくフランス式軍制導入し龍岡城内に設けた練兵場訓練行った。乗謨は、慶応元年1865年)に陸軍奉行慶応2年1866年)に老中陸軍総裁任じられ江戸幕府支えるために奔走した慶応4年1868年)、戊辰戦争際し乗謨は陸軍総裁老中辞任新政府帰順した新政府軍参加し北越戦争戦死した藩士の墓が蕃松院佐久市田口)にある。なお、藩の名称は、慶応4年1868年5月28日龍岡藩改称されている。明治4年1871年)、財政破綻のために廃藩申請し廃藩置県先立って廃藩となる。 なお、乗謨は明治維新後に大給恒おぎゅう・ゆずる)と改名日本赤十字社前身である博愛社創設賞勲局総裁などを務めるなど明治政府の下でも活動した明治17年1884年)に子爵明治40年1907年)に伯爵に昇った。

※この「田野口藩(龍岡藩)」の解説は、「奥殿藩」の解説の一部です。
「田野口藩(龍岡藩)」を含む「奥殿藩」の記事については、「奥殿藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「田野口藩」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「田野口藩」の関連用語

田野口藩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



田野口藩のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの奥殿藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの奥殿藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS