箱館焼失敗の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 01:15 UTC 版)
上記のように箱館焼は大きな成功を収めることなく失敗に終わるのであるが、幕末の蝦夷地開拓政策の一環として、蝦夷地での初めての本格的な近代窯業の試みとして特筆されるものであった。また、蝦夷地を前面に押し出したブランド化の試みは、当時としては画期的なものであった。しかしながら、釉薬や呉須など陶磁器生産に必要な物資をすべて本州からの移入に頼らざるを得ず、結果として輸送費がかさみ高価格となってしまったこと、出身地の異なる職人たちのいわば寄り合い所帯は士気の低下を招き、初歩的な失態による焼成の失敗が相次いだこと、赤字の埋め合わせとして計画された美濃焼の箱館焼名目での販売も仲買鑑札の許可がなかなか下りなかったために思うように美濃焼の買い入れができなかったこと、そして何よりも箱館奉行所や岩村藩自体の財政が逼迫している中で、箱館焼に十分な援助を行なうことができなかったことなどから、目立った成果を上げることなく生産中止となってしまったのである。この後、大政奉還、箱館戦争から明治維新に至る幕末明治の混乱の中で、蝦夷地での窯業生産は省みられる事はなく、箱館焼を超える規模の窯業生産は江戸時代においてはついに行なわれることはなかった。 蝦夷地での陶磁器生産事業は、ロシアの南下に対する蝦夷地の内国化とそれに伴う人口増加に対処するための道内産業の育成という戦略的意図をもって、幕藩権力によって推進された殖産興業の一環であった。しかし、石炭・鉄鉱・林業・漁業といった他産業と異なり、道内で原料を自給することができる産業ではなかったことが、蝦夷地での陶磁器生産を挫折させる要因となった。さらに、瀬戸・有田など本州の在来の窯は、江戸時代からヨーロッパでその価値を高く評価され輸出も盛んになり、品質の安定と技術の改善意識が旺盛になっていたが、このような情勢の中でそれまで近代陶磁器生産がまったく行なわれていなかった蝦夷地で新たな陶磁器生産業をはじめようとしても太刀打ちすることはできなかったのである。こうして、幕末の北海道窯業は、文明開化に即した新たな建材である煉瓦の生産事業をのぞいてはほとんど失敗に終わってしまったのである。
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