東京奠都・版籍奉還・廃藩置県とは? わかりやすく解説

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東京奠都・版籍奉還・廃藩置県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:05 UTC 版)

明治」の記事における「東京奠都・版籍奉還・廃藩置県」の解説

人心一新するため同年9月8日1868年10月23日)には年号を「明治」(読み:めいじ)と改めて、天皇一代の間に一年号とする「一世一元の制」を立てた4月11日江戸開城後の関東農民一揆抑えるため、東征大総督府軍監江藤新平は、閏4月1日に「江戸東京改め天皇迎えたい」と岩倉具視建言。これに前内大臣久我建通京都守旧派公卿相次いで反発したため、大久保利通が「大坂遷都論」を建言し、閏3月11日天皇関東親征のため、大坂行幸するという形で部分的に遷都準備取り掛かった。これに、京都市民や神道家反発し伊勢神宮祠官山田大路陸奥守親彦が天皇東行中止朝廷申し入れたが、7月17日江戸東京改称され鎮将府東京府設置政府決定発表され鎮将府参与に任ぜられた大久保と鎮将の三条実美駿河以東13ヶ国を管轄し京都東京2つ政府並立するとなった江戸東京へ改称後8月27日即位式挙げた明治天皇京都から東京移った9月20日京都出発10月13日東京着)ことを始め10月13日江戸城皇居とし、東京城改称した。。12月7日には、東京城宮殿造営する布告されるなど、東京遷都準備着々と進められた。天皇8日東京発って京都帰ったが、この東幸平行する形で、外交事務執る外国掛である議定松平慶永浅野長勲山内豊信正親町三条実愛外国公使正親町公董烏丸光徳参与三岡八郎由利公正)、後藤象二郎岩下佐次右衛門(方平)らは各国公使国書手渡す必要性から先だって東京大坂神戸往来した同年11月姫路藩酒井忠邦が「藩の名称を改め、すべて府県一般同軌にして、中興盛業遂げられたい」 という案を出してきた他、木戸孝允此の案を取り上げた12月22日京都還幸(翌明治2年3月再度東幸事実上の東京遷都)。翌年1869年明治2年2月には政府の諸機関東京移された。これら一連の動き当時御一新呼ばれた新政府未だ財政的軍事的制度的基礎固まっておらず、大久保木戸らの策謀に強い憤り抱いていた土佐藩主・山内容堂や自らを出し抜いた家臣反感抱いていた薩摩藩主の島津久光長州藩主毛利敬親らは早々に所領に引き篭もった。特に、朱子学教養水戸学歴史観を持つ保守思想家の島津久光の下には、武士階級復活を願う全国士族集まり封建党など様々な士族結社結成されていた。この状況から新政府大久保利通らを薩摩藩派遣して説得に当たらせたが、明治3年1870年2月24日久光明治政府を「洋夷の属国」として罵倒し内閣顧問任命される明治6年1873年)まで上京応じなかった。 そんな中で、新政府諸大名反発買わぬように、版籍奉還廃藩置県段階踏んで郡県制移行することを目指した。1869年明治2年1月14日京都薩摩長州土佐三藩会合京都円山持たれ薩摩から大久保長州から広沢真臣土佐から板垣退助出席した。そして三藩連名土地人民朝廷返上する旨の建白書提出することで合意した。また薩長土三藩副島種臣働きかけて、肥前佐賀藩主・鍋島直正動かした 結果、同20日薩摩長州土佐肥前の四藩の藩主から版籍奉還の上表朝廷提出された。これが呼び水となって諸藩領地領民天皇返上する上表次々と提出した版籍奉還)。 これに伴い各藩主の処遇新政府内で話し合われ大久保薩摩官吏藩主藩知事とし、世襲制にするべきだと主張したのに対し木戸長州官吏はこれに反対した。最終的に両者の主張折衷する形で、藩主そのまま藩知事任命されたが、世襲制否定された。また、この機に公卿諸侯呼称廃して華族改称し上・中下士区別をやめ全て士族としたほか、知事家禄石高十分の一限定し藩政知事家政分離した。これにより、建前として知事士族の間の君臣関係が消滅し各藩済し崩し的に自立性奪われ明治政府地方行政単位転化したまた、新政府内においても、王政復古時の五藩から、版籍奉還真っ先上表した薩長土肥の四藩が主導権を握るようになり、越前尾張芸州影響力低下した版籍奉還直後7月8日に、職員令により管制改革し祭政一致建前神祇官太政官置いて前者上位とし、太政官左大臣右大臣大納言参議顧問として待詔院置いた人選大久保発案で、三条実美右大臣)、岩倉具視大納言)、副島種臣参議)、前原一誠参議)、待詔院学士大久保利通木戸孝允板垣退助の3名を選出し薩長土三藩維新功臣激務から外して木戸官吏追い出し図った が、その後長州官吏廣澤真臣参議推して対抗し内政主導権争い続いたその後政体書規定を以て高官公選互選行われ輔相には三条実美公家)、議定には岩倉具視公家)、鍋島直正佐賀藩主)、徳大寺実則公卿)、参与には大久保利通薩摩藩士)、木戸孝允長州藩士)、副島種臣佐賀藩士)、東久世通禧公家)、後藤象二郎土佐藩士)、板垣退助土佐藩士)の10名を選出した。これにより、議定だった諸大名公卿多く免職となり、麝香間祗候か他職に追いやられ、薩長土肥以外の参与も、越前由利以外は免職となった9月に入ると王政復古論功行賞として「賞典禄」を与えた新政府外交方針として開国決めたことは尊王攘夷派怒り買った明治2年のうちに横井小楠大村益次郎早々に暗殺され長州藩においては同年12月1日大楽源太郎率い奇兵隊遊撃隊等の諸隊が乱を起こし木戸鎮圧に当たる始末となり、1870年明治3年5月には米沢藩士・雲井龍雄反政府陰謀事件発覚した1871年明治4年)には二卿事件久留米藩難事件征韓企画した外務権大丞丸山作楽逮捕事件勃発したこのように新政府がその基盤置いた薩長でさえも、洋式装備統一され実戦的訓練受けた軍隊擁しており、成立間もない新政府にとって不気味な存在であったましてや静岡藩はじめとする親藩譜代諸藩動静には過敏になっていた。その結果雲井龍雄処刑責任者であった広沢1871年明治4年1月9日暗殺されるなど片翼飛行始めたまた、国政薩長土肥牛耳っていたことも批判浴び明治3年7月26日には薩摩藩士・横山正太郎集議院門前抗議切腹行った政府内では薩長土肥対立加え太政官民部省大蔵省めぐって大久保木戸対立し薩長間で抗争繰り広げられており、世情不安定だったこうした中で、政府9月に「藩制」を公布し、藩への統制をさらに強めた。藩に共通する職制財政規定示し重要な賞罰政府許可を得ることや、藩士身分単純化藩債藩札整理命じたのだ。他方政府への不満を抑えるため、11月29日全国諸藩注視集め、藩地に帰郷した島津久光藩政改革通して薩摩藩軍備強化努め全国から集結した士族1万2000人の兵士大軍団を束ね政府への無言威圧となっていた薩摩藩士・西郷隆盛説得するため、岩倉具視勅使随員として大久保利通木戸孝允島津久光西郷隆盛の上京を求めて鹿児島向かい西郷隆盛受諾得てようやく政権安定させた。 こうして世情安定すると、政府1871年明治4年7月にまず薩長土の3藩から御親兵募って中央の軍事力固め次いで一挙に廃藩置県断行した全国261藩は廃止され、3府302県に変わり日本中央集権的統一国家となった藩知事士族の禄は保障され藩債肩代わりした。身分制度改革行い大名公家華族とする華族制度日本国憲法施行されるまで存在した西洋式倣った日本貴族制度)の創設と、武士身分士族として、農工商民(百姓町人)などを平民とし、日本人大和民族)は皆「国民」(明治憲法下では「臣民」とも呼ばれた)とされ、日本国民全員苗字公称認めた四民(士農工商)平等政策取った戸籍法制定し華族士族散髪脱刀並びに士族平民通婚自由にし、田畑手作り認め府県官制制定行い士族農工従事許可した。なおこれらとは区別して天皇血縁関係のある皇族皇室構成員)の地位もまた定められた。1871年明治4年)には、いわゆる解放令によってこれまでえた、ひにんとされていた賎民人々平民編入された。ただし、その後部落問題として余韻残したままとなった

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