諸侯との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 08:01 UTC 版)
「アレクサンデル3世 (ローマ教皇)」の記事における「諸侯との関係」の解説
フリードリヒ1世を敗北に追いやったほか、アレクサンデル3世は自身と非常に近い関係であったトマス・ベケットの殺害事件の責任を取る形でイングランド王ヘンリー2世を服従させた。1172年にはヘンリー2世のアイルランド卿としての立場を認めた。また、ポルトガル王アフォンソ1世の戴冠を認め、ローマからの逃避期間中にはフランス王ルイ7世の保護を受けた。それにもかかわらず、アレクサンデル3世は1179年の公会議後まもなくまたもローマを追われ、以後二度と戻ることはなかった。一部の貴族が同年9月29日に対立教皇インノケンティウス3世 (1179年 - 1180年) を立てるに至ったが、アレクサンデル3世は思慮深く金銭を使って権力を取戻し、1180年1月に対立教皇の廃位に成功している。1181年、アレクサンデル3世はスコットランド王ウィリアム1世を破門し、スコットランドに対して聖務禁止処分を課した。 アレクサンデル3世は1181年8月30日、チーヴィタ・カステッラーナで没した。
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