堀越公方としての活動
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長禄4年(寛正元年、1460年)1月1日には鎌倉に派遣されていた駿河守護今川範忠が帰国、4月に政知の陣所である堀越国清寺が成氏方に焼き討ちされる事態にまでなり、政知は堀越御所に場所を移した。成氏討伐どころか自らの命さえ危うい状況であり、政知は使者を京都へ向かわせ幕府と対応を協議、8月に斯波氏の家臣である朝倉孝景・甲斐敏光が派遣され軍事力の目処は立った。しかし、政知が斯波軍の兵力を背景に鎌倉へ移ろうとすると8月22日に義政に制止された。これは幕府が関東の幕府方勢力である上杉氏と堀越府が結びつき、堀越府の自立することを恐れて幕府の統制下で繋ぎ止めようとしたからであり、軍事指揮権も政知ではなく幕府が掌握、政知の頭越しに関東諸侯に命令していたため政知に実権は全く無かった。 寛正2年(1461年)8月2日に義政の命令で斯波氏の家督交代が行われ、義敏の子松王丸が出家、代わりに渋川義鏡の子義廉が斯波氏当主となり、10月16日に朝倉孝景・甲斐敏光と共に義政と対面、正式に当主となった。この義政の行動は幕府統制を継続させる代わりに堀越府の軍事力を強化するためであり、政知の執事義鏡が斯波氏当主の父という関係を築き、斯波軍を堀越府の直轄に置こうとする処置からであった。だが、寛正2年から政知の家臣が勝手に鎌倉や相模国人の所領に入部しようとしたり、扇谷上杉家家宰の太田道真が隠居、政知のもう1人の補佐役・上杉教朝が原因不明の自殺を遂げるなど関東幕府方が不穏な動きを見せ始める。 翌寛正3年(1462年)に政知が義鏡の讒言を信じ、扇谷上杉家当主の上杉持朝の反逆を義政に通報したため上杉氏内部で政知擁立に異論が出され、政知は持朝の相模守護職を停止させ相模を接収したが、義政が政知に持朝の保護を命令、持朝の重臣三浦時高・千葉実胤らが隠居する騒ぎに発展した。ここに至り義政は自ら調停に乗り出し、持朝ら扇谷上杉家の地位を保障する一方、政争を引き起こした義鏡を堀越府から追放して事態を収拾させた。政知は結果的に自ら鎌倉入りの可能性を閉ざし、義鏡が失脚したため斯波軍の編成も失敗に終わった。 以後は上杉政憲(教朝の子)が新たな関東執事として活動、政憲と共に上杉氏など関東諸侯との関係修復に努め、寛正6年(1465年)に成氏が再び攻撃して来た時は政憲を前線の五十子陣へ派遣している。また、義鏡の失脚で斯波氏の合力が期待できなくなったため、代わりに東駿河の国人衆との結びつきを強め、文明3年(1471年)に堀越御所を襲撃した成氏を上杉軍の加勢で撃破、成氏の本拠地古河城を攻め落としたが、翌4年(1472年)に成氏が復帰したため振り出しに戻った。文明8年(1476年)、駿河守護今川義忠が戦死してお家騒動が起こると政憲を駿河へ派遣して扇谷上杉家の家宰太田道灌と共に介入、調停の結果、義忠の従兄弟で政憲の外孫・小鹿範満が義忠の子龍王丸の代理として置かれることになった。 この最中に山内上杉家の重臣長尾景春が反乱を起こし(長尾景春の乱)、駿河から帰還した太田道灌が反乱を鎮めている最中に成氏が景春方に味方して参戦、危機に陥った両上杉家は和睦を考えるようになり成氏と幕府との和睦の仲介を約束して成氏と和睦、景春の反乱鎮圧後の文明14年11月27日(1483年1月6日)、成氏と幕府の和睦が成立して享徳の乱は終結した。和睦に至るまで政知は成氏ら古河公方勢力と20余年に渡る抗争を繰り広げたが、幕府は応仁の乱の最中であったため満足な軍事力を付与してもらうことができず、関東一円を制することは叶わなかった。最終的に堀越公方は和睦で伊豆1国のみの支配者となり、政知は和睦を進めた政憲とそれに同調した伊豆国人衆に不満を抱くようになった。
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