深刻な対立と第二次マラーター戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 09:13 UTC 版)
「マラーター同盟」の記事における「深刻な対立と第二次マラーター戦争」の解説
1795年10月、宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンが自殺したため、諸侯間で宰相位をめぐる争いがおこり、翌1796年にラグナート・ラーオの息子バージー・ラーオ2世が宰相となった。 しかし、ナーナー・ファドナヴィースが死ぬとバージー・ラーオ2世と諸侯との関係は険悪となり、特にホールカル家の当主ヤシュワント・ラーオ・ホールカルとは激しく対立した。ホールカル家はシンディア家とも争っており、1800年にはウッジャインの戦いでホールカル家がシンディア家を破っている。 1802年、バージー・ラーオ2世とホールカル家の対立から、ヤシュワント・ラーオはプネーを攻めた。そして、宰相府とシンディア家の連合軍を破り、プネーを占拠した。 同年12月31日、バージー・ラーオ2世はイギリスと軍事保護条約を締結し、1803年にその援助でプネーに帰還した。だが、マラーター諸侯はイギリスが介入したことを脅威に思い、また条約ではマラーター王国の領土割譲も約されていたため、マラーター諸侯とイギリスとの間で第二次マラーター戦争が勃発した。 第二次マラーター戦争では、マラーター諸侯は連携した行動をとることができず、ガーイクワード家に至っては中立を保つほどであり、イギリスはボーンスレー家、シンディア家、ホールカル家を破り、諸侯の力を削いだ。諸侯から割譲された領土は「征服領土」とよばれ、ベンガル管区に組み込まれた。
※この「深刻な対立と第二次マラーター戦争」の解説は、「マラーター同盟」の解説の一部です。
「深刻な対立と第二次マラーター戦争」を含む「マラーター同盟」の記事については、「マラーター同盟」の概要を参照ください。
- 深刻な対立と第二次マラーター戦争のページへのリンク