深刻な文壇との軋轢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
戦時中の厳しい状況下においても、太宰は厳しい統制、軋轢をかわしながら優れた純文学の作品を発表し続けることが出来た数少ない作家の一人であった。戦後、多くの作家が戦時体制への協力が原因で逼塞を余儀なくされる中、戦時体制への深入りを避けつつ、優れた作品の発表を続けていた太宰のもとに出版社からの執筆依頼が殺到することになった。 一躍流行作家となった太宰であったが、その一方で世相や文壇への抜きがたい不信感を抱くようになっていく。戦時中、体制に協力的でないと見なされた人たちに非国民との罵声を浴びせかけていたのにも関わらず、戦後、手のひらを反すように民主主義的な正義を振りかざし、人々を攻撃して回る状況が許せなかった。太宰は終戦後の日本で一世を風靡した自由主義も共産主義も時勢に乗った口先だけのものであり、本質は何を変わっていないと見なしており、また自分自身も古いままの人間であることを自覚して、自らと日本の行く末に悲観的であった。安藤宏は戦後社会に対するある種の断念の後、太宰の文学に重大な変調が見られるようになり、それと連動した形で文壇関係者との間の距離が生まれてきたことを指摘している。 終戦後、太宰は坂口安吾、織田作之助らとともに無頼派と呼ばれるようになる。彼らは文学者のサロンに入ることはなく、文壇の中でいわば一匹狼を通す中で評価される作品を発表してきた作家たちであった。中でも太宰は文壇のサロン的な文化を徒党を組んだなれ合いであり、政治的な要素で結びついていると憎悪しており、その存在を否定していた。価値観や社会体制の大転換の中で混沌とする終戦後の世相の中で、無頼派の作家たちの注目度は高まっていた。世間的注目を浴びた太宰治、坂口安吾、織田作之助はマスコミからしばしば鼎談の機会が設けられるようになった。1946年11月25日、改造と文学季刊主催による二本の鼎談が行われた数日後、織田作之助は大量喀血をして入院し、1947年1月に亡くなった。織田作之助の死に際して太宰は、「織田君は死ぬ気でいたのである……死ぬ気でものを書き飛ばしている男」とした上で、織田の死に論評を加える「識者」に対し、「織田君を殺したのはお前じゃないか、彼のこの度の急逝は彼の哀しい最後の抗議の詩である」と主張した。 戦後、一躍流行作家となった太宰には、文壇からやっかみの声も挙がった。太宰が友人知人の作家たちと飲み、酔って隣部屋に横になった後、皆で太宰の悪口を言い合って「太宰はいい気になったピエロだ」などと言っていたことを聞きつけ、太宰は地獄に叩き込まれたかのような思いを抱き、それら友人知人と疎遠になっていく。
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