諸侯との対立再燃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:25 UTC 版)
「エドワード1世 (イングランド王)」の記事における「諸侯との対立再燃」の解説
エドワード1世の戦争には膨大な戦費が必要であったが、その課税は激しい反発を招いた。1296年には教会が教皇ボニファティウス8世の勅書を理由に課税を拒否するようになった。これに対してエドワード1世は教会が財政に協力しないなら、今後王権は教会の財産や聖職者の生命の保護をしない旨を宣告し、課税拒否運動の中心の聖職者たちの追放を行った。 ついで翌1297年にはフランドル出兵計画をめぐって諸侯の間にもエドワード1世に対する反発が広がった。とりわけ第5代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴット(英語版)と第3代ヘレフォード伯(英語版)ハンフリー・ド・ブーン(英語版)は、 フランドルへの騎士の出征は前例がない。 国民が戦争で疲労している。 スコットランド情勢が緊迫している。 大憲章(マグナ・カルタ)や御料林憲章(英語版)が守られていない。 羊毛輸出関税が異常に高い。 などを指摘してフランドル出兵とそのための課税に反対した。この際の2人とエドワード1世の口論は激しく、エドワード1世が「出動しないならお前たちは絞首刑だ」と叫ぶと、2人は「いや出動せぬなら絞首刑にもならぬ」と応酬したと伝わる。 2人の異論を無視してエドワード1世は都市住民の所有する動産5分の1、農村住民の所有する動産8分の1を租税として徴収することを独断で決定し、さらに8,000サックの羊毛徴発を命じた。そして1297年8月末にフランドルへ向けて出陣したが、諸侯はまるで従わず、その軍勢はわずか200人だったという。エドワード1世の留守を狙ってノーフォーク伯とヘレフォード伯は財務府に乗り込み、「人々の同意なく、国王が恣意的に強制賦課金や羊毛徴発することは許されない」と論じて先に国王が命じた徴税を行うことを禁じた。さらに同年秋に招集が予定されていた議会に提出する文書『強制賦課金は認めないことについて (De Tallagio non Concedendo)』の起草を開始した。 これによりエドワード1世と諸侯の関係が再び緊迫化し始めたが、1297年9月にはウィリアム・ウォレス率いるスコットランド軍のスターリング・ブリッジの戦いの勝利とイングランド北部への侵攻があり、その危機感から両者は10月に一時的に和解し、『両憲章の確認書 (Confirmatio Cartarum)』を結んだ。これは、 大憲章と御料林憲章の確認および再公布。 先の国王の恣意的課税は前例とせず、イングランドにおける租税は全王国の共同の同意により、全王国の共通の利益のためにのみ課される原則を守ること。 高い羊毛関税も廃止すること。 が盛り込まれていた。これに基づき先のエドワード1世の恣意的課税は廃止され、議会と教会はその代わりの租税案をエドワード1世に与えた。 しかしこの後も諸侯と議会の国王に対する不信感は続き、1300年3月にウェストミンスターで招集された議会はエドワード1世に両憲章の全文を再確認・再公布させるとともに 『両憲章への追加条項 (Articuli super Cartas)』を新たに決議した。これは両憲章の違反者に対する罰則を設けるとともに、国王の役人による物資徴発に方法と手続きを規定することで、国王の徴税活動を制限するものだった。翌1301年にリンカンで招集された議会も国王に対する不信感が強い議会となった。 1305年になるとエドワード1世は自分が1297年の文書で行った約束は強制的に押し付けられたものだと主張しはじめ、教皇にその主張の承認を求め、翌1306年に認められている。このようにエドワード1世治世末には国王と諸侯の関係は悪化して、平穏さや円滑さを欠いた状態となっていた。
※この「諸侯との対立再燃」の解説は、「エドワード1世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「諸侯との対立再燃」を含む「エドワード1世 (イングランド王)」の記事については、「エドワード1世 (イングランド王)」の概要を参照ください。
- 諸侯との対立再燃のページへのリンク