アウクスブルクの和議(1555)以降
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「ラインラント福音主義教会」の記事における「アウクスブルクの和議(1555)以降」の解説
アウクスブルクの和議の1555年の後、シュポンハイム伯領の3/5 を支配していたフリードリヒ3世(1559年からプファルツ選帝侯)は1557年になって宗教改革を導入した(現在のラインラント福音主義教会ナーエ・ウント・グラン教会地区とジンメン=トラーバッハ教会地区)。しかしながら、カトリックのバーデン・バーデン辺境伯領との共同統治地域が1569年から存続してしまい、統治と同様に宗教政策もその影響を受けた。1685年以降、プファルツ選帝侯領はローマ・カトリック教会信徒のプファルツ=ノイブルク公に相続された。それに対抗する形で、1771年までバーデン・バーデン辺境伯領は新教徒のバーデン=ドゥルラハ辺境伯に統治されることになった(バーデン)。 同様に、シュポンハイム伯領はプファルツ選帝侯、続いてプファルツ=ジンメルン家との共同統治になり、1559年から改革派のプファルツ=ツヴァイブリュッケン公国、1569年からプファルツ=ビルケンフェルト家、1776年以降バーデン辺境伯領になった。共同統治に際して、法的には同様の権利を有し、プファルツ選帝侯領は宗教問題に関して主張を曲げることはなかった。プファルツは1559年の段階で、熱心な改革派のフリードリヒ3世がプファルツ選帝侯になった。その中でモーゼル川流域側のトラーベン=トラーバッハ地域はプファルツ=ビルケンフェルト家に統治され、ルター派に留まった(現在のジンメン=トラーバッハ教会地区)。なお、トラーベン=トラーバッハはカトリック教会が支配的なモーゼル川流域において福音主義教会の強い孤島的存在である。 1560年、ニーダーラインのメールス伯領では宗教改革が導入され、翌1561年にヘルマン・フォン・ノイエンアール(1553–1578年)によって、改革派教会戒規が導入された(現在のメールス教会地区、クレーフェルト教会地区)。1561年にはザイン伯領(現在のアルテンキルヒェン教会地区、コブレンツ教会地区)に宗教改革が導入された。同じ時期にクヴァット家が支配していたバート・ノイエンアール=アールヴァイラー (現在のバート・ゴーデスベルク=フォアアイフェル教会地区、コブレンツ教会地区)にも宗教改革が導入されたが、この地は現在ではカトリック教会が多数派に戻っている。1563年にはエッセンにも地元のカトリック大修道院の抵抗を排して宗教改革が導入された。同年、オーバーベルギッシャー郡グンマースバッハ周辺(今日のアン・デア・アガー教会地区)にも宗教改革が導入された。 1574年にザールブリュッケン伯領(今日のザール東、ザール西教会地区)に宗教改革導入が試みられたが、1680年のフランスのザール占領によってルイ14世の意図した再カトリック化が成功した結果、福音主義教会はほぼ壊滅した。ザールラントは今日連邦州の一員になっているが、福音主義信徒は少数派のままである。ザールラント以外にも再カトリック化が成功した地域としてグンマースバッハを中心とするオーバーベルギッシャー郡(今日のアン・デア・アガー教会地区)があり、地域で27万の住民がいるが福音主義信徒は9万人弱程度になっている。 ユーリヒ=クレーフェ継承戦争 後、1614年にクサンテン条約(en)を結び、カトリック信徒のプファルツ=ノイブルク公 ヴォルフガング・ヴィルヘルムがユーリヒ=ベルク公国を、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがクレーフェ公国、マルク伯領およびラーフェンスベルク伯領を手に入れた。この結果、マルク伯領であった地域でプロイセン王国の影響下でプロテスタント信仰が定着した(今日のオーバーハウゼン、エッセン、ヴッパータール教会地区)。 八十年戦争 (1568年‐1648年)、もしくは三十年戦争 (1618年‐1648年)、仏蘭戦争 (1672年-1684年)、再統合戦争 (1683年‐1684年)、プファルツ継承戦争 (1688年‐1697年)がおこなわれた結果、戦地になったラインラント地方は荒廃してしまった。とりわけ、ライン下りの周遊船で有名なライン・オーバーラント地方(ボンの南を起点に上流に向かってライン河の両岸に100km程に広がる細長いライン川中流部を含む)は何度も占領軍によって支配され、しばしば教派の支配関係も変遷した。 宗教戦争としての性格をしばしば有していたこれらの戦争の結果、オランダ人、ワロン人、フランス人新教徒移民がラインラント地方に流入した。独立した避難民居住区がアーヘン、ブルトシャイト、ヴェセル、エメリッヒ、クレーフェ、レース、ビューデリッヒ、デュースブルク、ケルン、ルートヴァイラー、ラインラント福音主義教会の飛び地であるヘッセン州ヴェッツラーにも作られた。これらの居住区の一部は19世紀初めまで存続していた。 1655年、古デュースブルク大学がブランデンブルク=プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯によって設立された。当時のニーダーライン地方の住民の3分の1は改革派信徒であり、古デュースブルク大学はその影響を受け、改革派の大学としての性格を持っていた。そのため、ラインラントに住むルター派やカトリック教徒たちは他の地域の大学に進学していた。とりわけ、ラインラントのルター派は1621年に設立されたアルザスのストラスブール大学に進学した。このような教派に分断された大学の状況は問題視され、1818年にプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって改革派色の強い古デュースブルク大学は廃校になり、大学図書館蔵書の大部分は、同年にボンに新設されたボン大学へ移された。ボン大学には福音主義神学部とカトリック神学部も設立され、ラインラントの福音主義教会牧師やカトリック教会司祭を養成する体制が作られた。現在デュースブルクにある大学は、その後の1891年に設立されたもので、2003年にエッセン大学と合併されてデュースブルク=エッセン大学(ドイツ語版)となった。
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