アウエルシュタットの戦いでの敗北
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「カール・フォン・クラウゼヴィッツ」の記事における「アウエルシュタットの戦いでの敗北」の解説
1806年10月14日にプロイセン軍はイエナの戦いとアウエルシュタットの戦いでフランス軍に壊滅的な打撃を受ける。クラウゼヴィッツの大隊もこの戦闘に参加しており、アウエルシュタットでホーエンローエ軍の退却に巻き込まれて退却を行った。ホーエンローエ公は4万の兵力を保持していたもののフランス軍の追跡により包囲され、解囲を試みずに降伏した。しかしクラウゼヴィッツが所属していた近衛大隊だけは降伏を拒否してバルト海沿岸を志向して解囲を試みている。両軍の騎兵部隊が交戦していたブレンツラウの町を避けながら北進中、町近郊のウッカー河でフランス軍の騎兵部隊と接触し、防御戦闘を繰り返しながら河岸の湿地帯を移動したが、沼地によって部隊が完全に行動不能になったため、ここで指揮官アウグストは降伏した。1806年12月にアウグストとともにクラウゼヴィッツはフランス北東部のナンシーに捕虜として抑留されたが、それほど厳しい抑留ではなかったためにフランス語の学習とパリの見学、また著述活動を行うことができた。
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