第1回シュパイアー帝国議会(1526年)からアウクスブルクの和議(1555年)まで
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1521年のヴォルムス帝国議会で決定されていたルター派禁止の決議であるヴォルムス勅令を、1526年の第1回シュパイアー帝国議会が事実上保留することを決定した。これによって、ヘッセン方伯領、ザンクト・ゴアー、レンス、カッツェンエルンボーゲン伯領プファルツフェルト(コブレンツ教会地区)、ヴェッテラウ郡 (ヴェッツラー教会地区)に宗教改革が導入された。ヴェッツラー周辺においてアダム・クラフト(1493–1558)の影響によって宗教改革が導入された。 マールブルク会談へ向かう途中の1529年にチューリッヒの宗教改革者フルドリッヒ・ツヴィングリとマルチン・ブツァーはバート・クロイツナハ近郊のマイゼンハイムとザンクト・ゴアーに滞在した。1529年9月28日にアドルフ・クラーレンバッハとペター・フリーステーデンはケルンのメルテン墓地で福音主義を奉じる異端者として焚刑に処せられた。 フェルデンツ伯領もしくはプファルツ=ツヴァイブリュッケン公国において、1523年に宮廷説教者ヨハン・シュヴェーベルがマルチン・ブツァーの影響を受けた宗教改革を導入した。さらにヴィッテンベルクで福音主義神学を学んだニコラウス・ファーバーも加わった。1526年の聖霊降臨日にパンと葡萄酒による二種陪餐聖餐式がおこなわれ、1533年に宗教改革が明確な形でこの地に導入された(現在のジンメン=トラーバッハ教会地区、オーベレ・ナーエ教会地区、トリーア教会地区)。 ラインラント地方で神聖ローマ皇帝 カール5世に対抗した新教徒諸侯が結成したシュマルカルデン同盟に加わった地域はヘッセン方伯領(1531年から)とナッサウ=ヴァイルブルク(1537年から) (現在のヴェッツラー教会地区)のみであった。プファルツ選帝侯とユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国はシュマルカルデン同盟に宥和的態度をとり、近い位置にあった。 大司教領世俗化という目論見を持ったケルン大司教ヘルマン・フォン・ヴィート(1477–1552; 在位 1515–1547)もシュマルカルデン同盟を一応支持した。 1541年以降、プファルツ=ジンメルン家は改革派信仰を受け入れ、ミッテルライン地方(現在のジンメン=トラーバッハ教会地区とコブレンツ教会地区の一部)、いわゆるライン渓谷中流上部のバッハラッハとその周辺に改革派信仰を導入した。ヘッセンのヴェッツラーとニーダーラインのヴェセルは1542年に宗教改革を導入した。同じくライン渓谷中流上部のヴィート侯国には1542年から1556年にかけて宗教改革が導入された(現在のヴィート教会地区)。クレーフェ公国に属した歴史を持ち、1290年に帝国自由都市になったニーダーラインの主要都市デュースブルクは1543年に宗教改革を導入した。なお、デュースブルクでは改革派教会が支配的で、ルター派教会の設立は1727年まで許されなかった。ザルム伯領は1543年前後に宗教改革を導入した。アーヘンでは1544年に福音主義教会が設立されたが、1614年まで市域に住む全ての改宗者は追放された。デュースブルク北部のマイデリッヒ=ベークにも宗教改革は導入され、1546/47年にはその足場が固められた。1548年前後にライン伯領にルター派宗教改革が導入された(現在のオーベレ・ナーエ教会地区イダー=オーバーシュタイン周辺地区)。1552年以降にギンボルン伯領にルター派宗教改革が導入された(現在のアン・デア・アガー教会地区、グンマースバッハ周辺)。 ゾルムス伯領ブラウンフェルス (ヘッセン) |ブラウンフェルスではゾルムス伯が1547年に福音主義の牧師を擁護し、改革派が定着した(現在のブラウンフェルス教会地区)。
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