第1回コンクール(1883年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 08:59 UTC 版)
「ソンゾーニョ・コンクール」の記事における「第1回コンクール(1883年)」の解説
1883年4月、ソンゾーニョ社は自社発行誌 "Il teatro illustrato" にコンクール開催を発表する。その要綱は以下の通りであった。 イタリア国籍をもつ若い作曲家のオペラ作品であること 1幕のみで完結すること 「セリア」(まじめなもの)であるか「ジョコーゾ」(おどけたもの)であるかは問わない 5人の審査員からなる選考委員会は応募作から2作品を選出、それらはミラノの歌劇場で上演され、そこでの聴衆の反応も参考に優勝作品が決定される 提出期限は1883年12月末 1幕物オペラという条件が組み入れられた背景には、舞台感覚に秀でたエドアルド・ソンゾーニョのたっての要望があったという説もあるが、審査委員会の負担緩和、ならびに舞台化費用軽減という実際的な意味合いが大きかったであろう。いずれにしてもこの条件は、この時代のイタリア人作曲家にとって、新奇とはいえないまでも挑戦を要する条件であった。もちろん、ペルゴレージに始まり、ロッシーニからドニゼッティに至る短幕物オペラ・ブッファの伝統は存在したが、19世紀中期以降のイタリア・オペラはグランド・オペラ様式の影響などもあり、大規模化の一途を辿る一方であった。単幕化の要請はより緊迫化したドラマ構成を要求しているのは疑いなかった。 また「イタリア国籍の作曲家」という条件は国家統一なればこそのものであり、19世紀後半ヨーロッパ各国でのナショナリズム勃興の流れを汲んだものともいえる。 優勝賞金は2000リラ(これは当時、ピアノ教師などで生計を維持している若手作曲家にとって優に年収以上に相当した)、1次審査通過作品の上演はソンゾーニョ社の費用負担によるとされた。審査委員会メンバーはガッリと、やはりミラノ音楽院作曲科の2教授、ポンキエッリ(オペラ『ラ・ジョコンダ』の作曲で有名)およびドミニチェーティ、ミラノ・ドゥオーモのオルガン奏者プラタニア、そしてイタリアにおけるワーグナー信奉者の筆頭格としても有名な指揮者のファッチオの5名だった。 応募総数は28作品だった。翌1884年4月に1次審査通過作品として選出されたのは、ルイージ・マペッリの『アンナとグァルベルト』(Anna e Gualberto)およびグリエルモ・ズエッリの『北の妖精』(La fata del Nord)であり、これらは同年5月4日、ミラノのマンゾーニ劇場で初演された。聴衆の評価はほぼ二分状態であり、委員会は両作を優勝とし、作曲家たちに1000リラずつを授与した。なお、今日これら作品も、彼らの他作も顧みられることは全くない。
※この「第1回コンクール(1883年)」の解説は、「ソンゾーニョ・コンクール」の解説の一部です。
「第1回コンクール(1883年)」を含む「ソンゾーニョ・コンクール」の記事については、「ソンゾーニョ・コンクール」の概要を参照ください。
- 第1回コンクールのページへのリンク