シュテッティン条約 (1653年)とは? わかりやすく解説

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シュテッティン条約 (1653年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 04:18 UTC 版)

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シュテッティン条約(1653年)
ポメラニア公国(中央)が1653年のシュテッティン条約により、スウェーデン帝国ブランデンブルク=プロイセンの間で分割された。水色はスウェーデン領ポメラニア西ポンメルン英語版)、オレンジ色はブランデンブルク領ポンメルン英語版東ポンメルン英語版)。
署名 1653年5月4日
署名場所 シュテッティン
締約国 スウェーデン帝国ブランデンブルク選帝侯領
主な内容 ポンメルンの両国の国境線が確定した
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シュテッティン条約(シュテッティンじょうやく、ドイツ語: Grenzrezeß von Stettin)は、1653年5月4日[1]ポンメルンポメラニア公国)のシュテッティンスウェーデン帝国ブランデンブルク選帝侯領の間で締結された条約。

スウェーデンとブランデンブルクは三十年戦争中に断絶したポメラニア家の領地の継承権をそれぞれ主張しており、スウェーデンは1630年のシュテッティン条約を理由とし、ブランデンブルクは1529年のグリムニッツ条約を理由とした。

分割自体は1648年のヴェストファーレン条約で決定されており、実際の国境線はシュテッティン条約で定められた。との間で結ばれた国境線を定めた協定条約である。この条約によってポンメルンの両国の国境線が確定した。条約により西ポンメルン英語版スウェーデン領ポメラニアに、東ポンメルン英語版ブランデンブルク領ポンメルン英語版になった。

背景

三十年戦争中、スウェーデンは1630年にポメラニア公国を占領した。最後のポンメルン公ボギスラフ14世英語版は1637年に死去、遺領はグリムニッツ条約によりブランデンブルクに継承される予定だった[2]

しかし、この継承はスウェーデンに阻止された[3]。三十年戦争を終結させたヴェストファーレン条約はポメラニアがスウェーデンとブランデンブルクの間で分割されることを定め、1650年のニュレンベルク条約で国境が大まかに定められた。

条約

正確な国境線は1653年のシュテッティン条約で定められた。ポメラニア公国はオーデル川の東に引かれた線に沿って分割され、シュテッティンを含む西ポンメルン英語版スウェーデン領ポメラニアに、東ポンメルン英語版ブランデンブルク領ポンメルン英語版になった[1][4]。スウェーデンが撤退した後も、東ポンメルンの関税のうち半分はスウェーデンに支払われた[1][4]

国境線はブランデンブルクとポンメルンの国境から北へ(グライフェンハーゲン英語版ヴィルデンブルッフ英語版はスウェーデン領に残る)、ヴィーロー英語版とシェーンフェルト(Schönfeld)を通ってヴォルティナー湖(Woltiner See)に向かい、続いてダメロー英語版とグライフェンハーゲンの間、クレボー英語版とブリュンケン(Brünken)の間、ヘケンドルフ英語版ブーフホルツ英語版の間を通った後、プレーネ川英語版に着き、そしてそこからフリードリヒスヴァルデ英語版の森、イーナ川英語版を通り、ゴルノウホーヘンブリュック英語版を迂回(両方ともスウェーデン領)、マルティンシャー湖(Martinscher See)を通り、カミーン英語版トリブゾー英語版フリッツォー英語版を素通り(いずれもスウェーデン領)、最後にラダック(Raddack)とリュヒェンティン(Lüchentin)の間でバルト海に着く[1]

1653年7月19日、ブランデンブルク領ポンメルン初のラントターク英語版スタルガルトで招集された[5]。1654年にはスウェーデンの東ポンメルンからの撤退が完了した[4]

影響

条約により、スウェーデンはヴェストファーレン条約で得たヴェーザー川エルベ川下流の領土に加えて、オーデル河口まで支配下に置くことになり、スウェーデンがライン川を除いてドイツの主要な河川の河口を全て支配することとなった。スウェーデン領ポメラニアはスウェーデンのドイツにおける足掛かりになった。

1679年と1720年の条約改正

スコーネ戦争の講和条約である1679年のサン=ジェルマン=アン=レー条約は国境線を僅かに西へ移動[6]大北方戦争の講和条約である1720年のストックホルム条約は国境線を遥か西、ペーネ川英語版ペーネシュトロム川英語版に移動した[7]

脚注

  1. ^ a b c d Heitz (1995), p.232
  2. ^ Croxton (2002), p. 30.
  3. ^ Heitz (1995), p. 226.
  4. ^ a b c Shennan (1995), p. 19.
  5. ^ Heitz (1995), p. 233.
  6. ^ Heitz (1995), p. 241.
  7. ^ Heitz (1995), p. 244.

関連項目

参考文献

  • Croxton, Derek; Tischer, Anuschka (2002). The Peace of Westphalia: a historical dictionary. Greenwood Press. ISBN 0-313-31004-1 
  • Heitz, Gerhard; Rischer, Henning (1995) (German). Geschichte in Daten. Mecklenburg-Vorpommern. Münster-Berlin: Koehler&Amelang. ISBN 3-7338-0195-4 
  • Shennan, Margaret (1995). The Rise of Brandenburg-Prussia. ISBN 0-415-12938-9 



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