三十年戦争終戦から選帝侯領の終焉まで(1650年 - 1802年)
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「ヴィンターベルク」の記事における「三十年戦争終戦から選帝侯領の終焉まで(1650年 - 1802年)」の解説
1652年に市は、ギュニングハウゼンに位置するツェーント(十分の一税管区)を購入した。これは、この街が戦争によって大きな被害を受けず切り抜けたことを示すもう一つの証拠である。 この頃、ヴィンターベルクはルイ14世の度重なる戦争によって救われたように見える。重大な例外がオランダとの戦争(1672年 - 1675年)であった。この戦争では、この地域は行軍のルートとなった。ペストの流行が飢餓や住民減少を招いた。本市には、1664年に 108人の住民がいたが、1685年の人口は 94人となった。 これに続く戦争のない時代に、ヴィンターベルクは繁栄した都市に発展を遂げた。これに伴い職業が細分化され、かなりの人口増加が起こった。それが明白なのが1717年の徴税簿(人口157人)である。人口は、1759年には少なくとも180人以上にまで増加し、長年の最高値に達した。 経済的発展は、近隣の貴族の所領を購入したり、賃貸したりといった努力によって成し遂げられた。市長のヤーコプ・メルヒェンは、1688年にエルケリングハウゼン邸およびその所領を賃借した。これらは当時ヴァルデック侯領の貴族家ボウルシャイト・ツー・ノルデンベック家が所有していた。1718年には、ヴィンターベルクの3人の市民、ハインリヒ・メルヒェン、ハインリヒ・シュミット、ローレンツ・ダイメルが共同でエルケリングハウゼン邸を使用した。貴族の所領は、市が利用できないばかりでなく、ひどい場合には競合相手や脅威になる可能性があった。このため、1734年に市長ローレンツ・ダイメルは、紛争相手となっていた貴族の所領を含む隣村のチュッシェンを3000ライヒスターラーで買収した。 従って、市長ローレンツ・ダイメルがほぼ同じ頃にエルケリングハウゼン邸を取り壊したのも偶然ではない。これに対してノルデンベック家の管財人は1734年に苦情を訴えた。エルケリングハウゼンでの事情調査と所有権の確認のために、ボウルシャイト家はケルン選帝侯に委員会を設置するよう請願した。その結果は明らかでないが、市長ダイメルは妨げられることなく貴族家の所領を占有し続けた。1735年に開始された十分の一税登録簿によって、18世紀中この賃借が持続していたことが裏付けられている。 七年戦争では、ヴェストファーレン公領やヴィンターベルク市は行軍や軍税に苦しめられた。不幸にも1759年に大火によって全市が完全に破壊された。それにもかかわらず、この年のうちに最初の家屋が再建された。2年後には火災前にあった建物の 1/3が、5年後には 2/3が再建された。 1791年、街は再び焼失した。今度は7件の家屋とブルワリー、ポンプ小屋、2棟のパン焼き小屋が焼け残った。また、1778年に創設されたヴェストファーレン火災組合から支払いがなされた。古い市壁は取り壊され、その石材は家や教会を新築するのに転用された。新しい都市構想では、火災の危険性を緩和するために、広い通りが設けられた。2年後には、1791年に存在していた建物の約 2/3が復興されていた。
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