プロイセン軍へ出仕
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「ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト」の記事における「プロイセン軍へ出仕」の解説
1795年3月5日のバーゼルの和約の後、シャルンホルストはハノーファーに帰国した。フランス革命軍の勝利の要因を考察し、軍事ジャーナルに『フランス革命軍の成功の原因』と題する論文を載せた。この論文の中で、シャルンホルストはフランス軍の強さは第一に優れた組織にあり、その背景には国民国家というフランス独自の社会体制があると看破している。これはシャルンホルストの論文の中でも特に有名なものとなった。すでにシャルンホルストの軍人としての名声は確固たるものであり、各国から招聘の声が寄せられた。1801年、シャルンホルストは、貴族の称号(フォン)と中佐の地位というもっとも良い条件を出してきたプロイセン軍へ勤務することにした。 プロイセンにおけるシャルンホルストの最初の仕事は、ベルリン士官研修所の教官だった。当時の研修所所長は、兵站総監(当時のプロイセンでは、参謀本部は兵站総監部と呼ばれていた)のゴイザウが兼任していたが、多忙な彼はシャルンホルストに全権を委任した。シャルンホルストは研修所の講義内容を大きく改め、熱心に若手士官の教育に取り組んだ。彼の講義を受けた士官の中からは、カール・フォン・クラウゼヴィッツやグロルマン、ティーデマンら、後のプロイセン軍改革に力を発揮するものが多数輩出された。 1802年1月24日(フリードリヒ大王の誕生記念日)、シャルンホルストは同僚とともに軍事協会を設立し、プロイセン軍の改革をいかに進めていくべきか意見交換をする場を設けた。1804年、シャルンホルストは研修所の組織を再編し、基礎的な将校教育を担当する研修所の他に、高度な教育を専門とするベルリン陸軍士官用学校(後のベルリン陸軍大学)を設立した。 このように軍内部の意識改革から進めていったシャルンホルストであったが、肝心の軍制改革はなかなか実行に移されなかった。改革を妨げる大きな原因は、七年戦争以来の功臣たちの存在だった。フリードリヒ大王の下でプロイセン軍の栄光を担った古参将校たちは、すでに確立された従来のやり方を変更することを望まなかったのである。 1804年、マッセンバッハの提言によって兵站総監部の再編が行われた。シャルンホルストは兵站総監部第三旅団長(参謀本部次長にあたる)に任命された。ただし、この時点では明確な権限や責任が規定されておらず、将軍の相談相手の域を出るものではなかった。1806年には大佐に昇進している。
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