プロイセン軍復帰
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「カール・フォン・クラウゼヴィッツ」の記事における「プロイセン軍復帰」の解説
復帰してからはクラウゼヴィッツは第3軍団参謀長を命じられたが、しばらくは大規模な戦闘はなかった。しかしナポレオンがエルバ島を脱出してフランスの政権を掌握したことから同盟国は再びフランスとの戦争に乗り出し、クラウゼヴィッツが所属する第3軍団も出撃した。1815年6月16日にプロイセンのブリュッヘル軍はリニーで敗北したがワーテルローの戦いでの勝利に寄与した。その作戦の指揮をとったグナイゼナウは戦後に戦略的な要所であるコブレンツに赴任し、そこでクラウゼヴィッツを参謀長として抜擢した。ここには軍制改革を推進した将校たちが集められ、シャルンホルストの息子も参謀として勤務している。ここでは夫人も呼び寄せられて生活しており、クラウゼヴィッツは夫人を随伴する参謀旅行の計画を策定している。しかしグナイゼナウは長期間にわたる疲労により健康状態が悪化していたことから退官願を提出して国王は無期限の休暇を与えた。グナイゼナウは1816年7月にコブレンツを離れ、シャルンホルストの軍制改革に反対していたフォン・ハーケ中将が赴任してきた。そこでクラウゼヴィッツは不満が多い勤務生活を送る傍らで、『戦争論』の作成に取り掛かり始めている。
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