ウティカ包囲戦
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陣営立て直しの為にユバ1世はザマへ逃れたがザマ住民が城門を閉じた為、カエサル軍の掃討戦により進退に窮したユバ1世はマルクス・ペトレイウスと刺し違えて自殺、ヌミディア王国は滅亡した。メテッルス・スキピオはヒッポレギウス(現:アンナバ)近郊で殺害、アフラニウスやファウストゥス・コルネリウス・スッラは捕えられて処刑されたが、ポンペイウス兄弟やラビエヌスらはヒスパニアへ逃れた。 カエサル軍はタプスス、ハドルメントゥム(現:スース)を落とした後、カトらが守るウティカを包囲。カトは奴隷を解放して兵力に当てると共にタプススの敗残兵も収容して徹底抗戦の構えを示したものの、ウティカ住民からの協力が得られず、カエサル軍の攻撃を支えきれなかった為、カトも自殺して果てた。カトは後に「ウティカのカト(カト・ウティケンシス)」と称されることとなる。 紀元前46年4月13日、カエサルがウティカを占領したことで、北アフリカ戦線は終結した。なお、占領から2日後にカエサルはウティカを発ち、ローマでの凱旋式を経て、ラビエヌスら元老院派が残るヒスパニアへと向かうこととなった。
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ウティカ包囲戦
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「ウティカの戦い (紀元前203年)」の記事における「ウティカ包囲戦」の解説
多数の戦利品と捕虜を得た後、秋にはスキピオはウティカへ向かった。彼の意図は、このフェニキア人の都市を占領し、その後の作戦の基地とすることであった。多数の攻城兵器を準備し、ローマ艦隊の支援もあったが、城壁に向かっての直接的な攻撃は撃退された。このため、ローマ軍は通常の包囲戦を開始した。しかしカルタゴの2つの大軍の出現により、包囲戦は短期間で終了した。援軍に到着したのはハスドルバルの軍と、その義理の息子であるシュファクスの軍であった。今度は両者とも躊躇しなかった。カルタゴ軍の兵力はローマ軍を大きく上回っており(ポリュビオスとリウィウスはハスドルバル軍を3万以上、シュファクス軍はその倍としているが、現代の歴史家はこの数は大げさすぎると考えている)、スキピオはウティカから直ちに離れることを余儀なくされた。ウティカから遠くない場所(後のカストラ・コルネリア)に防御を施した冬営地を設置し、シチリア、サルディニア、イベリアからの補給を受けられるようにした。ハスドルバルとシュファクスは、カストラ・コルネリアからやや離れた場所に、別々に冬営した。
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