シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題と公国の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 07:33 UTC 版)
「ホルシュタイン公国」の記事における「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題と公国の終焉」の解説
「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」、「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」、および「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」も参照 1815年のウィーン会議以後、ホルシュタイン公国はドイツ連邦に参加した(なおウィーン会議では、ホルシュタイン公国の南東に隣接する小規模な公国・ラウエンブルクの公位もオルデンブルク家が獲得しており、以後ホルシュタイン公国と歩みをともにしている)。 しかし、「ドイツ」の領域内にあるデンマーク王領であるという特殊な立場であることからシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題と呼ばれる外交上、軍事上の係争を引き起こすことになった。「ドイツ統一」に向けて民族主義がうねる中で、ホルシュタインのドイツ人住民の間にはデンマークによる支配に対する不満も高まった。加えて当時のデンマーク王フレデリク7世(在位: 1848年 - 1863年)には継嗣がなく、さらにホルシュタイン公国(サリカ法を適用)とデンマーク王国とで王位継承の規定が異なるといった後継問題も、事態に複雑さを加える要因であった。 1848年革命が波及する中で、ホルシュタイン公国ではデンマークからの独立を求める暫定政府が形成された。この動きには、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン総督フレゼリク・ア・ネアと、その兄でデンマークの王位継承に名乗りを上げていたアウグステンブルク公クリスチャン・アウグスト2世が加わっていた。プロイセン王国は、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の独立への動きを支援した。デンマークは第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1848年 - 1851年)においてプロイセン王国の侵攻を退け、現状を維持するという条件で休戦が結ばれた。 1863年、デンマーク王にグリュックスブルク家からクリスチャン9世が即位すると、シュレースヴィヒとホルシュタインの地位問題が再び持ち上がった。第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1864年)において、プロイセンとオーストリアの連合軍がアイダー川を越えシュレースヴィヒまでをも征服した。デンマーク王クリスチャン9世は、1864年のウィーン条約(Treaty of Vienna (1864))において、シュレースヴィヒおよびホルシュタインの放棄を余儀なくされた。これにより、デンマークによるホルシュタイン公国統治の歴史は終わる。 戦後、プロイセンはシュレースヴィヒを、オーストリアはホルシュタインを管理することになった。しかし間もなく、シュレースヴィヒ=ホルシュタインの管理をめぐる紛争を口火として普墺戦争(1866年)が勃発した。結局ホルシュタイン公国はプロイセンによって併合され、プロイセン王国のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州(Province of Schleswig-Holstein)の一部となった。 なお、クリスチャン・アウグスト2世の子フリードリヒ8世はシュレースヴィヒとホルシュタインの公爵位を主張していたが、プロイセンの圧力により請求を取り下げさせられた。
※この「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題と公国の終焉」の解説は、「ホルシュタイン公国」の解説の一部です。
「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題と公国の終焉」を含む「ホルシュタイン公国」の記事については、「ホルシュタイン公国」の概要を参照ください。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題と公国の終焉のページへのリンク