デュペル堡塁の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 06:11 UTC 版)
「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の記事における「デュペル堡塁の戦い」の解説
詳細は「ドゥッブル堡塁の戦い」を参照 プロイセン軍はサウンドウィットを占領した後、デュペル堡塁を偵察して攻撃方法を検討した。デンマーク軍はデュペル堡塁に3個旅団を配置し、アルス・スンド海峡を挟んだ背後のアルス島に防衛線を敷いて援護した。3月1日、プロイセン軍はデュペル堡塁の陣地攻撃を開始し、偵察の結果により左翼6堡塁に正攻法を取ることとし、31日までに堡塁の約900m前に第一攻撃陣地、4月11日頃までに約400m前に第二攻撃陣地を構築した。14日頃には堡塁の約200~300m前まで近接して最終攻撃陣地に突撃準備を行い、北方へ派遣していた混成近衛師団も呼び寄せてた。18日午前10時より突撃を開始し、激戦の後に堡塁を攻略した。敗走したデンマーク軍は海軍の援護射撃のもと、後方のアルス島のゾンダーブルクまで退却した。この攻撃ではクルップの大砲が初めて用いられ威力を発揮したといわれた。 この戦いでプロイセン軍とデンマーク軍の双方で共に1,100人の犠牲を出した。
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