アメリカ側の事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:31 UTC 版)
「ペリリューの戦い」の記事における「アメリカ側の事情」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}ペリリュー島上陸作戦のアメリカ海兵隊指揮官 第1海兵師団師団長ウィリアム・リュパータス少将 第1海兵師団副師団長 オリバー・P・スミス少将 第1海兵連隊連隊長ルイス・ブラー大佐 太平洋方面のアメリカ軍首脳部は、マリアナ攻略戦の最中に今後の進撃ルートの再検討を始めた。アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督は「マリアナの後、フィリピン、台湾を目指し、台湾を拠点として海上封鎖とアメリカ陸軍航空軍による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む」のを目指していた。アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将は「ニューギニア西方に位置するモルッカ諸島のモロタイ島からフィリピンのミンダナオ島、レイテ島を経由して、日本本土侵攻」をも視野に入れていた。 するとアーネスト・キング海軍作戦部長が「南方資源地帯と日本本土の間のシーレーンを遮断するため、フィリピンは迂回して台湾に上陸、中国大陸沿岸部の到達を目指すべきで、最終的に日本本土を攻略」と主張し出して混乱し、そこへサイパンの戦いで上陸部隊を統率しているアメリカ海兵隊ホーランド・スミス中将が米陸軍第27歩兵師団 (アメリカ軍)(英語版)長ラルフ・スミス(英語版)陸軍少将を「攻撃精神と指導力の不足」を理由に解任したことで「スミスVSスミス」と呼ばれる大問題となり、陸海軍の混乱は収拾がつかなくなった。 結局フランクリン・ルーズベルト大統領の指示によりアメリカ統合参謀本部がフィリピン侵攻に至る作戦計画を作成して、混乱は収拾された。 計画では「1944年9月15日マッカーサーの陸軍主体の連合国南西太平洋方面軍が担当するモロタイ島攻略実施。海軍主体の連合国中部太平洋方面軍が担当して同日パラオのペリリュー島とアンガウル島、10月5日ウルシー環礁の攻略実施。11月15日ミンダナオ島へ、12月20日レイテ島へ上陸」という予定で、9月11日の第2回ケベック会談でイギリスのウィンストン・チャーチル首相に対して発表された。(この際の戦略決定の経緯についてはフィリピンの戦い (1944-1945年)#アメリカを参照。) パラオ侵攻についてウィリアム・ハルゼー中将(当時)は「ペリリュー攻略はタラワの戦いのように多大な損害を強いられるだろうし、アメリカ機動部隊の空襲でパラオの日本軍飛行場と航空戦力はもはや脅威ではないからパラオは迂回すべきである」と正確に情勢判断しており、艦隊泊地として利用価値のあるウルシー攻略を優先するようニミッツへ意見具申していたのだが、ニミッツはマッカーサーの陸軍と張り合う立場上から「ミンダナオ島から800kmしか離れていないパラオから日本軍が、アメリカ軍のフィリピン攻略部隊へ航空攻撃を仕掛けてくる懸念がある。」「フィリピン進行への航空作戦の拠点ともなる前進基地を確保する。」という理由づけで、パラオ攻略作戦を計画して実行に移すこととなった。 それは海軍の肩を持つルーズベルトの指示で練られ、イギリスなど同盟国にも説明済で準備も進められているパラオ侵攻計画を覆すことにもなるハルゼーの意見が到底受け入れられる筈も無かったのである。 ペリリュー島の上陸部隊は、ガダルカナル島の戦いによりアメリカ軍最強とうたわれ、ニューブリテン島西部でのグロスター岬の戦いも経験し、日本軍相手に敵前上陸とそれに続く激しい攻防戦での戦訓を得ていて、強大化され士気も旺盛な第1海兵師団が担当することとなった。その師団長ウィリアム・リュパータス海兵少将は、ガダルカナル戦当時は准将で同師団の副師団長としてツラギ上陸部隊を指揮し、その後のニューブリテン島では師団長として戦闘を経験していた。 1944年9月6日からアメリカ軍は艦載機による侵攻前の予備爆撃を始めて日本軍の防御力を削ごうとしたが、堅固な防御陣地と対空砲火に阻まれ効果的とは言い難かった。また特殊工作員が上陸し、日本軍陣地の配置を探ったり、機雷の無力化を行ったという。
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