協定破棄後の日米関係とは? わかりやすく解説

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協定破棄後の日米関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:35 UTC 版)

桂・ハリマン協定」の記事における「協定破棄後の日米関係」の解説

上でも少しふれたようにかつてはハリマン協定廃棄をもって満洲をめぐる日米対立序幕(ないし顕在化)」とする見方通説となっており、少なくとも協定破棄をもって日米蜜月時代終焉」とする見解もあった。『戦史叢書 大本営陸軍部〈1〉』においても、この破棄により「日米の間は急に冷却した」と記されている。以下、参考までにハリマン協定破棄後の日米関係の推移について若干ふれておく。 ハワイ併合ののち、ハワイからアメリカ太平洋岸へ渡航する日本人移民激増しそれにともない日系移民排斥運動激増した日本海海戦日本勝利した2週間前の1905年5月14日サンフランシスコ市67労働組合によりアジア人排斥同盟結成された。1906年10月にはサンフランシスコ白人労働者層圧力日本人学童市内公立学校から排除して東洋人学校へと隔離する決議採択したこの年4月起こったサンフランシスコ地震教室足りなくなったというのが、表向き理由であったが、青木周蔵駐米大使日米通商航海条約における両国保護違背しているとして、これに抗議した親日家大統領として知られセオドア・ルーズベルトは、ユージン・ヘイル(英語版上院議員にあてた同年10月26日付の私信には、日露戦争後激化したカリフォルニア州中心としたアメリカ西海岸での反日運動危惧しながら、 カリフォルニア州の政治家は対日戦争を引き起こす安材料になっている。ただちにそうした事態になるとは思わないが、将来については不安である。日本人誇り高く感受性も強い。戦争恐れない性格で、日露戦争勝利栄光酔っている。彼らは太平洋パワーゲーム参加しようとしている。日本危険性はわれわれが感じている以上に高いのかもしれないだからこそ私はずっと海軍増強訴えてきたのだ。……仮に戦争となり、我々の艦隊旅順港ロシア艦隊のような運命をたどることになれば、日本簡単に25万人規模兵力太平洋岸に上陸させることができる。そうなれば、それを駆逐するのに数年歳月がかかり、それに加えてとんでもないコストがかかるだろう。ジャップロシア勝ってから実に生意気だ。しかしこちらが大艦隊を持ってさえいれば、奴らだってそう簡単に手出しできない。 と記している。 12月事態憂慮し大統領警告教書発したためサンフランシスコ市軟化し1907年3月日本人移民ハワイからアメリカ本土へ渡航禁じられるカリフォルニアでの排日運動沈静化して日本人学童隔離命令撤廃された。しかし、今度日系移民カナダ西海岸目指すようになったため、日英関係悪化して同盟揺らぎかねない事態となった結局1907年11月日米両国日米紳士協約英語版)を結び、実際日本側がアメリカへの新規移民自主規制をおこなうことで事態収拾させた。 また、日露戦争後アメリカでは海軍中心に日本脅威論が持ち上がり一部には日本ハワイアメリカから奪い、さらにカリフォルニアなど西海岸窺うではないかとの憶測生じ1907年にはアメリカ領だったフィリピン固守するために西太平洋へと攻め込んで日本海軍撃破するオレンジ計画」の研究始動した。本計画は、大艦隊をフィリピン海方面投入して日本海軍決戦挑み日本本土海上封鎖させることを眼目としていた。ルーズベルト退陣間際1908年11月日米両国高平・ルート協定を結び、清国独立および領土保全自由貿易及び商業上の機会均等アメリカによるハワイ併合フィリピン対す管理権満洲における日本地位相互に承認して日米関係調整したが、これは暗黙のうちに、アメリカ日本韓国併合満洲南部勢力圏化を承認し日本カリフォルニアへ移民制限継続を含むものであった1909年アメリカでは2期大統領務めたルーズベルトに代わって、同じ共和党ウィリアム・タフト大統領就任し従来とは異なり、「ドル外交」と呼ばれるアメリカの経済力を背景とする対外政策転換したタフト政権国務長官フィランダー・ノックス(英語版)は、1909年11月12月ヨーロッパ諸国日本対し、「満洲鉄道中立化案」を提案した。それは、満洲鉄道列強買収して共同管理するか、満鉄並行線となる錦州璦琿鉄道の建設支持するか、いずれか求めるというもので、英・露・仏・独の各国打診されたのち、日本には12月20日、トーマス・オブライエン(英語版駐日大使通じて伝えられた。 第2次桂内閣小村外相はこれにも反対の立場をとり、1910年1月18日小村主導ノックス中立化拒否閣議決定なされた1月21日には日露共同拒否通告発し英仏両国それぞれの同盟国ならって反対表明したのでアメリカ試み失敗帰したこれを機に日本にはロシアおよびフランスとの親密化がもたらされた。1909年12月24日小村ロシア駐日大使に対し日露協約一歩進めるべきと提案したのに対しロシアアレクサンドル・イズヴォリスキー外相賛意示し3月2日閣議決定経て協約交渉始まった交渉順調に進み1910年7月4日サンクトペテルブルク第二次日露協約成立した日本陸軍最大仮想敵依然としてロシアであったが、日本海軍仮想敵アメリカ説明されることが多くなった。 とはいえこうした動きは必ずしも日米関係悪化をただちに意味するわけではなく小村その後アメリカとの関係調整意を用いたノックスまた、これ以上日米関係悪化怖れ日本意向以前よりも考慮するようになった日米両国1910年10月19日より日米通商航海条約改定交渉進め1911年2月21日には新条約が調印されて、関税自主権の完全回復がなされ、幕末以来日本人にとって悲願であった条約改正達成された。1911年また、アメリカ日本対し総括的仲裁裁判条約提議した年でもあった。日米両国は、1914年起こった第一次世界大戦では同じ連合国陣営立って参戦したのである

※この「協定破棄後の日米関係」の解説は、「桂・ハリマン協定」の解説の一部です。
「協定破棄後の日米関係」を含む「桂・ハリマン協定」の記事については、「桂・ハリマン協定」の概要を参照ください。

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