協定破棄後の日米関係
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「桂・ハリマン協定」の記事における「協定破棄後の日米関係」の解説
上でも少しふれたように、かつてはハリマン協定の廃棄をもって「満洲をめぐる日米対立の序幕(ないし顕在化)」とする見方が通説となっており、少なくとも協定破棄をもって「日米蜜月時代の終焉」とする見解もあった。『戦史叢書 大本営陸軍部〈1〉』においても、この破棄により「日米の間は急に冷却した」と記されている。以下、参考までにハリマン協定破棄後の日米関係の推移について若干ふれておく。 ハワイ併合ののち、ハワイからアメリカの太平洋岸へ渡航する日本人移民が激増し、それにともない日系移民排斥運動が激増した。日本海海戦で日本が勝利した約2週間前の1905年5月14日、サンフランシスコ市で67の労働組合によりアジア人排斥同盟が結成された。1906年10月にはサンフランシスコで白人労働者層の圧力で日本人学童を市内の公立学校から排除して東洋人学校へと隔離する決議を採択した。この年の4月に起こったサンフランシスコ地震で教室が足りなくなったというのが、表向きの理由であったが、青木周蔵駐米大使は日米通商航海条約における両国民保護に違背しているとして、これに抗議した。 親日家大統領として知られたセオドア・ルーズベルトは、ユージン・ヘイル(英語版)上院議員にあてた同年10月26日付の私信には、日露戦争後に激化したカリフォルニア州を中心としたアメリカ西海岸での反日運動を危惧しながら、 カリフォルニア州の政治家は対日戦争を引き起こす不安材料になっている。ただちにそうした事態になるとは思わないが、将来については不安である。日本人は誇り高く、感受性も強い。戦争を恐れない性格で、日露戦争の勝利の栄光に酔っている。彼らは太平洋のパワーゲームに参加しようとしている。日本の危険性はわれわれが感じている以上に高いのかもしれない。だからこそ私はずっと海軍増強を訴えてきたのだ。……仮に戦争となり、我々の艦隊が旅順港のロシア艦隊のような運命をたどることになれば、日本は簡単に25万人規模の兵力を太平洋岸に上陸させることができる。そうなれば、それを駆逐するのに数年の歳月がかかり、それに加えて、とんでもないコストがかかるだろう。ジャップはロシアに勝ってから実に生意気だ。しかしこちらが大艦隊を持ってさえいれば、奴らだってそう簡単には手出しはできない。 と記している。 12月、事態を憂慮した大統領は警告の教書を発したためサンフランシスコ市も軟化し、1907年3月、日本人移民のハワイからアメリカ本土への渡航が禁じられるとカリフォルニアでの排日運動は沈静化して日本人学童隔離命令も撤廃された。しかし、今度は日系移民がカナダ西海岸を目指すようになったため、日英関係が悪化して同盟が揺らぎかねない事態となった。結局、1907年11月に日米両国が日米紳士協約(英語版)を結び、実際は日本側がアメリカへの新規移民の自主規制をおこなうことで事態を収拾させた。 また、日露戦争後のアメリカでは海軍を中心に日本脅威論が持ち上がり、一部には日本はハワイをアメリカから奪い、さらにカリフォルニアなど西海岸を窺うのではないかとの憶測が生じ、1907年にはアメリカ領だったフィリピンを固守するために西太平洋へと攻め込んで日本海軍を撃破する「オレンジ計画」の研究が始動した。本計画は、大艦隊をフィリピン海方面に投入して日本海軍に決戦を挑み、日本本土を海上封鎖させることを眼目としていた。ルーズベルト退陣間際の1908年11月、日米両国は高平・ルート協定を結び、清国の独立および領土保全、自由貿易及び商業上の機会均等、アメリカによるハワイ併合とフィリピンに対する管理権、満洲における日本の地位を相互に承認して日米関係を調整したが、これは暗黙のうちに、アメリカは日本の韓国併合と満洲南部の勢力圏化を承認し、日本はカリフォルニアへの移民制限の継続を含むものであった。 1909年、アメリカでは、2期大統領を務めたルーズベルトに代わって、同じ共和党のウィリアム・タフトが大統領に就任し、従来とは異なり、「ドル外交」と呼ばれるアメリカの経済力を背景とする対外政策に転換した。タフト政権の国務長官フィランダー・ノックス(英語版)は、1909年11月と12月、ヨーロッパ諸国と日本に対し、「満洲鉄道中立化案」を提案した。それは、満洲の鉄道を列強が買収して共同管理するか、満鉄並行線となる錦州・璦琿間鉄道の建設を支持するか、いずれかを求めるというもので、英・露・仏・独の各国に打診されたのち、日本には12月20日、トーマス・オブライエン(英語版)駐日大使を通じて伝えられた。 第2次桂内閣の小村外相はこれにも反対の立場をとり、1910年1月18日、小村主導でノックス中立化案拒否の閣議決定がなされた。1月21日には日露共同で拒否通告を発し、英仏両国もそれぞれの同盟国にならって反対を表明したのでアメリカの試みは失敗に帰した。これを機に、日本にはロシアおよびフランスとの親密化がもたらされた。1909年12月24日、小村はロシア駐日大使に対し、日露協約を一歩進めるべきと提案したのに対し、ロシアのアレクサンドル・イズヴォリスキー外相も賛意を示し、3月2日、閣議決定を経て新協約交渉が始まった。交渉は順調に進み、1910年7月4日、サンクトペテルブルクで第二次日露協約が成立した。日本陸軍の最大の仮想敵は依然としてロシアであったが、日本海軍の仮想敵はアメリカと説明されることが多くなった。 とはいえ、こうした動きは必ずしも日米関係の悪化をただちに意味するわけではなく、小村はその後アメリカとの関係調整に意を用いた。ノックスもまた、これ以上の日米関係の悪化を怖れて日本の意向を以前よりも考慮するようになった。日米両国は1910年10月19日より日米通商航海条約改定交渉を進め、1911年2月21日には新条約が調印されて、関税自主権の完全回復がなされ、幕末以来、日本人にとって悲願であった条約改正が達成された。1911年はまた、アメリカが日本に対し、総括的仲裁裁判条約を提議した年でもあった。日米両国は、1914年に起こった第一次世界大戦では同じ連合国の陣営に立って参戦したのである。
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