協定破棄に関する歴史的評価
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「桂・ハリマン協定」の記事における「協定破棄に関する歴史的評価」の解説
小村による予備協定破棄については、満洲南部における日本の拠点を守った「英断」であったという見解もあれば、歴史的な「愚挙」であったという見解もある。 上述の本多熊太郎などは当然、前者の立場に立っている。また、太平洋戦争開戦直後の大川周明は『米英東亜侵略史』(1941年12月16日「鉄道王ハリマン」)のなかで、以下のように述べている。 日本国民はハリマンが秘かに東京に来たころに、講和談判に不平を唱えて焼き打ちの騒動となり、戒厳令まで敷かれたのであります。それなのにその少なき獲物のうちから、満鉄をアメリカに売ってしまえば、勝利の結果を全く失い去るのに等しいのであります。当時もし、日本国民がハリマン来朝の真意を知ったならば、その激昂は一層猛烈であったに相違ありません。想うにハリマンは、日本が経済的危機に迫っていたのに乗じ、講和談判斡旋の恩を笠に着て、日本から満鉄利権の半分を見事に奪い取ったもので、もし小村全権が敢然これに反対しなかったならば、おそらく日本の大陸発展が、この時すでにアメリカのために阻止されてしまうはずであったのであります。 「大東亜戦争」のイデオローグであった大川の分析は、ハリマン提案が当時の日本の弱みにつけ込んだものであり、また、単にハリマンの個人的な思いつきではなく、国策としてアメリカが自国の利権を拡大しようとしたものだったという前提に立っており、それを首相に白紙撤回させた小村の手腕は見事だというものであった。今日でも、桂・ハリマン協定が実現していたら満洲はアメリカの勢力圏に入っただろうという歴史学者の観測がある。なお、外務省編纂『小村外交史』(1953年)においては「奮然同案を打破するに至つた冥冥の努力に至つては、なお説いて尽くさゞるの感がある」として、小村の行為を肯定ないし顕彰する立場に立っている(ただし、同書はハリマン提案がアメリカの国策であったという見方には必ずしも立っていない)。 それに対し、小村の行為は長期的ないし巨視的にみればアメリカとの対立を促進する要因となったのであり、長い目でみれば「愚挙」に属したのではないかとする見解がある。たとえば、東條英機の側近であった鈴木貞一は、戦後、以下のように述べている。 日露戦争に日本が勝ったというのは、ご承知のように英米のバックがあって、むしろその手先きの戦をしたようなものだから、戦争に勝った時にアメリカは、獲物の分け前にあずかろうとした。ハリマンの満州鉄道の問題がそうです。ところが日本は戦に勝ったから、頑としてきかない、自分で満鉄を経営するという。そのとき以来アメリカが日本に対する警戒を強めていたんです。 同様の見解は既に昭和初期にもあり、国際問題評論家であった稲原勝治は1927年(昭和2年)発行の『外交読本』において、ハリマン提案は「厄介なこと」に「ハリマンの計画であって、同時にハリマンを通して現れた米国そのものゝ計画」であり、言い換えれば「米国西漸の一個の表現」であるとし、満洲問題での日本の一人勝ちの状態について「米國の日本を憎むこと甚だしく、日米戦争が何時如何なる導火線によりて、點火せられるかもしれぬとさへ氣遣われる、切羽詰まつた状態となつた」と説明している。 ハリマン提案の拒否が、日米戦争の遠因のひとつになったのではないかという見解が、評論家の岡崎久彦や現代史の北村稔などから示されている。外交評論家の岡崎は、1906年にハリマンが高橋是清に対し「いまから十年のうちに」米国との共同経営をしなかったことを悔いるだろうと述べたことを踏まえ、「それが十年後ではなく、三十年後日本のツキが落ちたあと、第二次大戦となって実現されるのである。いまとなってみれば、日本としては、ハリマン提案を受諾しておくことが正解であり、小村の術策は、国の大きな運命を誤ったというべきであろう」と論じている。また、北村稔は「日露戦争後に日本が獲得した満州での権益は、中国との確執だけでなくアメリカとの対立を引き起こし、日中戦争から太平洋戦争に向かう日本の方向に決定的な影響を与えた」と述べている。こうした論を敷衍していけば、このときアメリカを引き入れて満洲の地を共同管理に持っていけば、満洲をめぐる日米対立もなく、その後の河本大作による満洲某重大事件や満洲事変もなく、したがって太平洋戦争も避けられたに違いないということになる。 こうした意見に対し、ハリマン協定の撤回を1941年の太平洋戦争に結びつけるのは、いささか単純で一面的にすぎるのではないかという見解が、日本近代史・政治外交史の片山慶隆より示されている。すなわち、日米共同で満洲経営にあたるようになっても、別の理由で両国が対立することもありうるのであり、日本が死活的な利害関係を有すると見なしている韓国の隣接地にアメリカが介入してくることは、当時としては、逆に日米衝突を早める可能性さえあったという指摘である。しかもハリマンは、韓国の鉄道経営にも積極的に参与する野心を持っていたのであるから、早晩、衝突は避けられなかった可能性がある。また、小村寿太郎その人も、外国からの過度の干渉には否定的であっても、モルガン系企業などからの満洲への外資導入は認めていた。小村外交は確かに帝国主義的という点で一貫していたが、ハリマン協定破棄問題で小村を批判し、数十年後に起きた日米開戦と結びつけるのは短絡的なのではないかという見方を片山は示しているのである。 「英断」か「歴史的愚挙」かという議論については以上の通りであるが、その多くがハリマン提案が当時のアメリカの国策を反映したものであったという前提に立っている。しかし、既述のとおり、小村がハリマンとの協定を破棄した理由が「小村の裏にはハリマンと敵対したJ・P・モルガンなどのニューヨークの銀行家の支持があったから」という理解に立てば、アメリカの国策とは直接関係がなかったこととなり、政治学者で歴史学者の信夫清三郎も既に1948年の著作のなかでそのことを指摘している。また、上述『小村外交史』(外務省編纂)でも、金子堅太郎の努力により、南満州鉄道の運営資金の目処が立ったことが小村の協定反対の理由であるとしている。 東洋史学者の波多野善大は、1957年の『日本外交史研究』において、セオドア・ルーズベルトが日比谷焼打事件などに伺える日本国民のポーツマス条約に対する反発が自分自身にも及ぶことを懸念して、日本が唯一得た利権にアメリカ人が手を出すのを封じようとして一族のモンゴメリー・ルーズベルトにひそかに打たせた手であった可能性もあるとしている。 小林道彦(日本政治外交史)は、桂・ハリマン協定の破棄は従来説のように満州問題をめぐる日米対立の顕在化とみるべきではなく、融資の調達先をクーン・ローブ商会からより有利な条件を引き出せるモルガン商会へと切り替える計画が、同協定破棄の背後にあったとしている。すなわち小林は、小村がハリマン=クーン・ローブ連合とモルガン商会との米国内における対立を利用して事を有利に進めたという見解に立っており、1923年の関東大震災を契機にアメリカの対日投資の主役はクーン・ローブ商会からモルガン商会へと決定的に移行している事実を重視し、桂・ハリマン協定の破棄はその最初の現れであったにすぎないと論じているのである。 佐々木隆(日本近代史)は、1つの大洋に2つの海洋大国が長期的に共存しえた例はないことから、日米衝突は遅かれ早かれ訪れる事態であって、この件で確実に言えるのは日本が南満洲に深く関わるようになり、大陸国家的要素を強めたことであったろうとしている。オレンジ計画(上述)の立てられた1907年前後の日本の海軍力はアメリカの半分弱にすぎず、太平洋全域を管制する能力に欠けていたし、そもそもその意志もなかった。19世紀段階の科学技術では日米ともに広大な太平洋を一円的に管制することは不可能だったのであり、両国とも外洋海軍国というよりは沿岸海洋国にとどまっていた。1908年10月、世界周遊中のアメリカ艦隊が「親善訪問」の名目で横浜に来航するが、これは海軍力の運用能力の実地検証を兼ねており、アメリカはこれより外洋海軍の運用を開始していく。およそ海洋国家は1つの大洋を一円的に管制しなければ、自国の通商を保護し、かつ、成長をつづけることができないというのが、日米衝突不可避論の根拠である。 佐々木はまた、日米の外交確執の起点を、ハリマン協定を含む日露戦争後の満洲経営問題、あるいはカルフォルニアを中心とする排日移民法などに求めることの多かった通説に対し、従来、あまりふれられることの少なかった1898年のハワイ併合の重要性を指摘している。これは、ハリマン提案の拒否を過度に重視するのではなく、ロシア海軍の壊滅によって北太平洋西部のシ―パワー構造が単純化したために、日米の相克がみえやすくなった側面に着目する必要があることを示唆している。
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