協定締結までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:07 UTC 版)
英米総領事のあっせんによって1月29日午後8時から停戦することになっていたが、30日朝からふたたび双方から砲撃があった。 31日上海列国海軍先任指揮官イギリス海軍少将フレミングはまず中立地帯設定案を提議し、撤回し、日本軍備区域を第三国軍隊で警備する案を提出したが、村井倉松総領事および塩沢幸一司令官はこれを拒絶した。 東京で29日英米大使は、日本陸戦隊が共同租界を作戦根拠地となし、日本軍が共同防備の趣旨に反して単独行動をとったことについて警告し、2月1日英米仏3国大使はこの警告とあわせて各自国民の生命財産の保護と軍の行動が自衛行動の範囲外に出ることのないように警告したが、芳沢謙吉外相の説明は反駁的であった。 翌日3国大使は居中調停のために正式に共同提議を行なったが、日本側からの回答に接して断念した。 ジュネーブでは国際連盟理事会が3月3日の臨時総会の招集を決議し、事前に局面を打開しようと芳沢外相は2月26日理事会に上海円卓会議を提唱し、上海では日中両国間で停戦の協議が英米仏伊4国の代表を加えて3月4日から数回にわたって開かれた。 しかるに中国側は、停戦と同時に撤兵の期日を明示せよ、満州問題を解決しよう、などと難題を持出し、4月11日突然、会議の延期を申し出、ジュネーブの十九箇国委員会の開会を要求した。 連盟は16日十九箇国委員会を開き、日本の撤兵の時期を混合委員会の決定に委ねるという案を作った。 日本はこれに反対し、しかしイギリス公使ラムソンの調停あっせんによって妥協案が成立し、4月下旬停戦協定に調印するのみとなった。 しかし29日上海天長節爆弾事件が起こり、1932年5月5日調印が成立した。 日本政府は上海からの撤兵を決し、5月中旬陸兵のすべてを撤退することに閣議決定した。
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