南洋事業とは? わかりやすく解説

南洋事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 14:12 UTC 版)

小島文八」の記事における「南洋事業」の解説

1907年明治40年)春台湾旅行中、基隆豪商西沢吉治出会った満州安東県に父を訪ね秋に南満州鉄道沿線調査行った後、西沢商店神戸支店勤め10月半ば東沙諸島無人島渡り西沢経営のため視察行った帰国後、神戸支店長崎支店移り8月長崎支店長となったが、1908年明治41年11月高平・ルート協定により西沢島は清国領土とされ、次いで西沢吉治死去し退社した1909年明治42年6月祖山鐘三の『実業天地創刊助けて印刷担当した次号は出なかったものの、その時知り合った秀英社長紹介で、年12月東洋移民会社業務代理人としてボーキサイト採掘移民連れて仏領ニューカレドニア島渡った1910年明治43年)父が帰国して藤枝隠棲したため、その敷地内引越し農村生活を夢みたが、挫折した渋川玄二の紹介東京朝日新聞社会部勤めたが、間もなく退社した和田瑞が大倉喜八郎依頼揚子江に行くことを聞き野村岩蔵同行単身帰国した1912年明治45年池田旭の勧め三五公司入社しマレー半島ゴム植林事業のためジョホール王国バトパハ(マレー語版)に赴任した1915年大正4年)頃、総支配人木村大介が赴任し1917年大正6年12月木村大介の推薦南洋ゴムスマトラ島でのゴム事業任され1918年大正7年)暮帰国し本郷区吉祥寺境内住んで東京本社勤務したが、1919年大正8年4月社長死去したため退社した父の遺産退職金元に在京のままシンガポールゴム会社設立したが、1920年大正9年戦後恐慌によりゴム価が暴落し解散した1920年大正9年)から1921年大正10年)の間、自叙伝生命廃墟」を著した1937年昭和12年9月23日死去ホイットマンの詩を誦しながら息を引き取ったという。

※この「南洋事業」の解説は、「小島文八」の解説の一部です。
「南洋事業」を含む「小島文八」の記事については、「小島文八」の概要を参照ください。

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