南洋事業
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1907年(明治40年)春台湾旅行中、基隆の豪商西沢吉治に出会った。満州安東県に父を訪ね、秋に南満州鉄道沿線調査を行った後、西沢商店神戸支店に勤め、10月半ば東沙諸島の無人島に渡り、西沢島経営のため視察を行った。帰国後、神戸支店、長崎支店に移り、8月長崎支店長となったが、1908年(明治41年)11月高平・ルート協定により西沢島は清国領土とされ、次いで西沢吉治も死去し、退社した。 1909年(明治42年)6月祖山鐘三の『実業之天地』創刊を助けて印刷を担当した。次号は出なかったものの、その時知り合った秀英社社長の紹介で、年12月東洋移民会社業務代理人としてボーキサイト採掘移民を連れて仏領ニューカレドニア島に渡った。 1910年(明治43年)父が帰国して藤枝に隠棲したため、その敷地内に引越し農村生活を夢みたが、挫折した。 渋川玄二の紹介で東京朝日新聞社社会部に勤めたが、間もなく退社した。和田瑞が大倉喜八郎の依頼で揚子江に行くことを聞き、野村岩蔵と同行、単身帰国した。 1912年(明治45年)池田旭の勧めで三五公司に入社し、マレー半島のゴム植林事業のためジョホール王国バトパハ(マレー語版)に赴任した。 1915年(大正4年)頃、総支配人木村大介が赴任し、1917年(大正6年)12月木村大介の推薦で南洋ゴムのスマトラ島でのゴム園事業を任され、1918年(大正7年)暮帰国し、本郷区吉祥寺境内に住んで東京本社に勤務したが、1919年(大正8年)4月社長が死去したため退社した。父の遺産と退職金を元に、在京のままシンガポールにゴム会社を設立したが、1920年(大正9年)戦後恐慌によりゴム価が暴落し、解散した。 1920年(大正9年)から1921年(大正10年)の間、自叙伝「生命の廃墟」を著した。 1937年(昭和12年)9月23日死去。ホイットマンの詩を誦しながら息を引き取ったという。
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