南洋・南方への志向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:59 UTC 版)
パラオ南洋庁に赴任した時の見聞や、現地で行動をともにした土方久功からの伝聞など、ミクロネシア諸島を題材にした『環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―』や民間伝承から材を得た『南島譚』といった、いわゆる南島物の作品群が生まれたが、それらは未開の土地のさまざまな人や風物を中島独特の感覚と思考で描いたものとなっている。 パラオ行きは友人の釘本久春からの斡旋という偶然的なもので、出発時前後に逡巡する気持ちもあったが、中島の蔵書にはゴーギャンのタヒチ紀行『ノア・ノア』があり、中島の歌稿「和歌ではない歌」の中にも、「ある時はゴーガンの如逞ましき野生のいのちに触ればやと思ふ」という歌があるため、何らか南島への誘われる意識や原始的なものへの関心があったと岡谷公二は指摘し、中島が以前に友人の田中西二郎から大久保康雄の小説を含む本を送られ、南洋群島を舞台にした大久保の短編(「孤独の海」などの南洋短編と推察)を読んでいた事実にも触れている。 また、『環礁』の中の1篇「真昼」では、昼の静寂の中、旅立つ前の「期待」や「新しい・きびしいものへの翹望」と反する「無為と倦怠」を感じ、自分がヨーロッパ・近代の「蒼ざめた殻」をくっつけた目で風景を見ていることを自問自答しており、『寂しい島』では子供が5歳の女の子しかいなくなった島で人類滅亡と天体の虚無を想起し、『狼疾記』の宇宙的なテーマが引き継がれている面もみられる。 中島の南方への志向は、パラオ赴任の5年前(1936年)の小笠原諸島の旅がきっかけで、旅の後に歌稿の「小笠原紀行」で100首あまりの小笠原の自然風景を綴った歌を詠んでいる。この「小笠原紀行」で形成された南洋のイメージや原風景、南洋への志向から「ツシタラの死」(『光と風と夢』)の原稿がパラオ出発前にはでき上がっていた。中島は「我の意識」への疑問という「狼疾」(自我追及に執着する傾向)に悩まされていたため、「無文字」的な未開の世界への憧れにも似たものが、彼を南方へ向わせたのではないかと見られている。 ミクロネシアの南島物を書く前の『光と風と夢』は、自身と同じく肺病を患っていたロバート・ルイス・スティーヴンソンを主人公に彼の晩年のサモア島での暮らしを描いたものである。中島はスティーヴンソンに自身を投影させ、「小説」が書物の中で最上のものであると言い切り、「何と云はれようとも、俺は俺の行き方を固執して俺の物語を書くだけのことだ」と作家としての強い自負の内面が語られ、「魅力に富んだ怪奇な物語の構成」と「巧みな話法」を持つ新たな作品への意欲が含意されている。 また作中ではサモアを植民地にしている白人たちの西欧式支配構造の横暴や傲岸さも描かれ、スティーヴンソンの理想郷とする新しい生活の目標として、「白人文明を以て一の大なる偏見と見做し、教育なき・力溢るる人々と共に闊歩し、明るい風と光との中で…」といったウォルト・ホイットマンに関わる句も掲げられているが、「ツシタラの死」から題名を変更するにあたり、この句の中の語と重なる「風と光と夢」を経てから「光と風と夢」に落ち着いたという。 その『光と風と夢』に描かれている西欧近代文明批判的なものには、日本自体の植民地政策に対する批判的なものも含まれているとする小森陽一の見方もあるが、中島が作中で「理想的な植民地」を夢見ていることも指摘されている。ドナルド・キーンは、中島がスティーヴンソンの口を借りて(スティーヴンソンが言ってもいないことも付加し)、自身の「反白人感情」や「大東亜戦争の理想」を語らせていることが『光と風と夢』の際立った特徴だとし、中島の「反西洋感情」は、中島が東洋的な真髄を描いた古代中国を舞台にした作品と一対を成しているとしている。
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