旅順要塞に着任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 15:00 UTC 版)
「ロマン・コンドラチェンコ」の記事における「旅順要塞に着任」の解説
日露戦争開戦前の1901年、参謀部管区当直将官として沿アムール軍管区に転任。1903年11月には、少将に昇進し、旅順要塞防衛の任に当たる第7東シベリア狙撃旅団長(1904年に師団に昇格)に就任する。しかし前要塞築城責任者が予算を私的に流用したりしていたため、旅順要塞の主要部分は未完成であった。その様子を見て落胆した彼は、同僚に宛てて「何処に要塞があるというのだ。旅順には要塞と呼べる施設は何処にも無い」としたためた手紙を書いている。 着任翌日より来襲が予想される日本軍から旅順を防衛するために自ら要塞築城の陣頭指揮に当たる。旅順要塞司令官アナトーリイ・ミハイロヴィチ・ステッセリ中将は、コンドラチェンコの能力を信頼しほとんどの要塞防衛作戦計画を一任したため、要塞築城や防衛計画に関して専門家である彼のセンスを遺憾なく発揮することができ、旅順要塞を短期間で永久防塁に固められた近代要塞に変貌させた。
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