第一次閉塞作戦
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2月18日、東郷は第三次行動となる旅順口閉塞と港内間接射撃の作戦発動を命令した。5隻の老朽船と77名の志願兵からなる閉塞船団が組織され、23日23時50分、警戒および襲撃を任務とする第五駆逐隊(司令:真野巌太郎中佐。陽炎、不知火、叢雲、夕霧)と閉塞船団は旅順港近くの老鉄山下に進出した。 24日0時30分より月が没すると黄金山・城頭山・白銀山のロシア砲台からサーチライトの照射が始まった。第五駆逐隊は探照灯を避けながら老鉄山東岸に沿って徐々に進んだがついに発見された。1時30分に探照灯の消灯に乗じて偵察を行ったところ、駆逐艦2隻と艦種不明の1隻を発見し、これに魚雷攻撃を行った。 襲撃の後、水雷艇を用いた航路偵察が行われたが、探照灯により発見され砲撃を受けた。陸上砲台の砲撃停止と航路が確認されたため、老鉄山沖に待機していた5隻の閉塞船団は4時15分より天津丸、報国丸、仁川丸、武揚丸、武州丸の順で突入を開始した。ロシア軍の沿岸砲台からサーチライトと激しい砲撃を浴びせられ、閉塞船団は位置の把握も困難となった。報国丸が戦艦レトヴィザンからの砲撃を受けつつもかろうじて湾口の灯台下で自沈できたものの、他の閉塞船は湾口の手前で自沈し、閉塞は不十分なものとなった。 水雷艇隊は危険を冒して閉塞船から脱出した突入隊の収容を行った。天津丸・報国丸・武揚丸の乗員は第十四艇隊により収容されたが、第九艇隊(燕欠)は攻撃を行ったため仁川丸・武州丸の乗員収容が行えなかった。24日中に仁川丸・武州丸の乗員が収容できなかったため、更に東郷長官は25日に千早・龍田を旅順口へ派遣して捜索を続けたが発見できなかった。 一方、両船の乗員達は砲火を避け隠れながら洋上を彷徨った後に偶然遭遇して合流し、ジャンク船等を使って清国の煙台にたどり着き、水野幸吉領事と森義太郎中佐と連絡を取ることに成功して帰還を果たした。なお、この時海外のメディアに輸送船を沈めたことを報じられ、陸軍にも秘匿していた閉塞作戦が明るみに出ることとなった。 この作戦で機関兵1名が死亡した。
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