第一次長州征伐と下関戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「第一次長州征伐と下関戦争」の解説
こうして長州藩は京都守護職・会津藩ら江戸幕府軍(皇軍・官軍)による防衛戦に敗れ、さらに孝明天皇は1864年(元治元年)7月23日江戸幕府第14代征夷大将軍・徳川家茂へ長州征伐の勅命を発した。同年8月17-18日(元治元年7月27日-28日)、前年に長州藩から受けた砲撃への報復として、イギリスのオーガスタス・レオポルド・キューパー中将を総司令官とするイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合艦隊は横浜を出港し、9月5日(元治元年8月5日)に下関海峡から長門国を攻撃、長州藩は敗北・降伏し講和条件を受け入れた(下関戦争)。これをうけて長州藩政は尊攘派が後退し、俗論派(保守派)が皇軍(官軍、幕府軍)に恭順の意を示し、禁門の変の首謀者である3家老・4参謀の処刑、長州藩第13代藩主・毛利敬親の謝罪、山口城の破却、禁門の変以後に七卿落ちで同藩へ身を寄せていた三条実美ら5公卿の身柄引き渡しなどの要求に応じ戦わず降伏した。
※この「第一次長州征伐と下関戦争」の解説は、「鳥羽・伏見の戦い」の解説の一部です。
「第一次長州征伐と下関戦争」を含む「鳥羽・伏見の戦い」の記事については、「鳥羽・伏見の戦い」の概要を参照ください。
- 第一次長州征伐と下関戦争のページへのリンク