第一次長州征伐と小豆島事件
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「鞍懸寅二郎」の記事における「第一次長州征伐と小豆島事件」の解説
かくして赤穂藩が紛糾していた最中、文久3年8月は王政復古運動は最大の危機を迎えていた。この月に大和行幸が宣下され、攘夷派の気運が高まる中、八月十八日の政変によって朝議は一変。長州藩は京都警固の任を解かれ、三条実美ら攘夷派の公家が長州へと落ち延びた(七卿落ち)。この事件において、津山藩主・松平慶倫は病に伏しており、老臣海老原信濃が各藩との折衝に当たった。慶倫は池田慶徳(因幡)、池田茂政(備前)、蜂須賀茂韶(阿波)など自身の兄弟たちと協議し、幕府に対し、毛利敬親親子への譴責を赦すよう連署を出しているが、寅二郎は副使として江戸に赴き、酒井忠績、板倉勝静らに面会している。 翌文治元年、禁門の変によって窮地に立たされた長州藩に対し、幕府側は長州征討に向けた動きを見せていた。その最中、8月25日に瀬戸内海沖に停泊していたイギリス船上で銃が暴発し、一部が津山藩領となっていた小豆島の住人が流れ弾によって死亡した事件が発生した。慶倫は寅二郎にイギリスとの損害賠償交渉に当たらせ、寅二郎はまず小豆島で10日ほど現地調査を行い、その後江戸に赴いて幕府外国奉行を介して英国行使と交渉。交渉の最中に馬関戦争が勃発し、英国が賠償金300万ドルを幕府に肩代わりさせることで講和が成ったことで幕府側の対応は弱腰であった。 だが寅二郎の粘り強い交渉によって翌慶応元年4月23日、英国側は銀貨200枚を以て賠償とすることで合意した。 長州征討の最中、寅二郎が対外交渉のため江戸に滞在していたのは、一説には前年から長州征討派兵に反対し諫言を繰り返していた寅二郎をこの問題から遠ざけたからだとされている。津山藩が勤王派であった寅二郎を重用していたのは前藩主にして、徳川家斉の第15子である松平斉民(確堂)による所が大きかった。だが、津山松平家嫡流の慶倫が当主になり、確堂が江戸詰めとなる頃には佐幕派が勢いを取り戻していた。翌慶応2年からは藩政から遠ざけられるように江戸藩邸在番を命じられている。翌慶応3年、在勤を終え津山に戻るも政治に参画する機会はなかった。
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