第一次長州征伐と小豆島事件とは? わかりやすく解説

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第一次長州征伐と小豆島事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:30 UTC 版)

鞍懸寅二郎」の記事における「第一次長州征伐と小豆島事件」の解説

かくして赤穂藩紛糾していた最中文久3年8月王政復古運動最大危機迎えていた。この月に大和行幸宣下され、攘夷派の気運が高まる中、八月十八日の政変によって朝議一変長州藩京都警固の任を解かれ三条実美攘夷派の公家長州へと落ち延びた七卿落ち)。この事件において、津山藩主・松平慶倫は病に伏しており、老臣海老原信濃各藩との折衝当たった。慶倫は池田慶徳因幡)、池田茂政備前)、蜂須賀茂韶阿波)など自身兄弟たち協議し幕府対し毛利敬親親子への譴責赦すよう連署出しているが、寅二郎副使として江戸に赴き、酒井忠績板倉勝静らに面会している。 翌文治元年禁門の変によって窮地に立たされた長州藩対し幕府側は長州征討向けた動き見せていた。その最中8月25日瀬戸内海沖に停泊していたイギリス船上で銃が暴発し一部津山藩となっていた小豆島住人流れ弾によって死亡した事件発生した。慶倫は寅二郎イギリスとの損害賠償交渉に当たらせ、寅二郎はまず小豆島10日ほど現地調査行いその後江戸赴いて幕府外国奉行を介して英国行使交渉交渉最中馬関戦争勃発し英国賠償金300ドル幕府肩代わりさせることで講和成ったことで幕府側の対応は弱腰であった。 だが寅二郎粘り強い交渉によって翌慶応元年4月23日英国側は銀貨200を以て賠償とすることで合意した長州征討最中、寅二郎対外交渉のため江戸滞在していたのは、一説には前年から長州征討派兵反対諫言繰り返していた寅二郎をこの問題から遠ざけたからだとされている。津山藩勤王であった二郎重用していたのは前藩主にして、徳川家斉の第15子である松平斉民(確堂)による所が大きかった。だが、津山松平家嫡流の慶倫が当主になり、確堂が江戸詰めとなる頃には佐幕派勢い取り戻していた。翌慶応2年からは藩政から遠ざけられるように江戸藩邸在番命じられている。翌慶応3年在勤終え津山に戻るも政治参画する機会はなかった。

※この「第一次長州征伐と小豆島事件」の解説は、「鞍懸寅二郎」の解説の一部です。
「第一次長州征伐と小豆島事件」を含む「鞍懸寅二郎」の記事については、「鞍懸寅二郎」の概要を参照ください。

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